2003年02月12日

暗黙知としての法、「道徳」の消失がもたらすもの

インターネットは、ネットワークコミュニティというものを生み出した。それは物理的な、そして時間的な制約が取り払われたインタラクションによって形成される。
物理的な、時間的な制約とはなんであるか、
物理的な面とは、ある人物とある人物が情報交換する際に、時間をかけて、その人物自体が移動する必要性がなくなったということである。すでに電話などによっても実現されてきたが、それがさらに進化し、複数の人間間で、遠隔地間においてもフェイストゥフェイスとかわらない情報交換が可能となりつつある。時間的な制約とは、コミュニケーションをするさいに、おなじ時刻を共有する必要がなくなったと言うことである。それは手紙や留守番電話でも可能であったが、情報技術はこういった技術をさらに進化させ、時間を共有しなくてもあたかも時間を共有しているかのようなコミュニケーションを可能にしている。
つまり、手紙や留守番電話では非常に難しかった、双方向的な情報交換というものを、情報技術は非常に簡単に実現するようになったのである。

すでにこういった技術は企業のエグゼクティブの間では普通に用いられている。また一部の一般市民も利用しているコミュニケーション手段である。
しかし、このようなコミュニケーション手段が一般化したときはたしてどうなるのだろうか。私はふとあるとき、ある一つの光景をみたとき、思い至ったのである。

とある食卓、そこには6人の男女がいた。6人は、テレビを見ながら食事をしていた。そのうちの二人の人間は、携帯電話を持っていた。6人は全員がテレビというメディアを通して、日本の多くの人間と片方向の情報供給を受けながら、6人相互に双方向の情報交換をしつつ、「その中の二人は、メールを使って別の誰かと双方向コミュニケーションをしている」のである。しかもそのなかの一人はわたしなのであるが、私はそのとき4人の人間と対話をしていた。一人は高校時代の友人、一人は中学時代の友人、一人は大学の友人である。もう一人は、だれとメールをしていたかはしらないが、すくなくとも二名とコミュニケーションをしていたことはたしかである。

いままでは、ここでは、場所と時間を共有した人間の間で密接なコミュニケーションが図られていたのである。(それは家族という閉鎖コミュニティの形成に大きな意味を持つ。)
さらにいうと、そこにテレビというマスメディアが加わることによって、大量生産大量販売からはじまった現在の販売にとって必須条件となるひとつの地域内での価値の共有が始まった。
別の言い方をすると、大量に生産して大量に販売するには、有る程度、常識としての商品イメージであるとか、商品の定義であるとかが普及していなくてはならず、またそれを提供するメーカの知識が消費者に浸透していなくてならないはずであるのだが、マスメディアがその価値のシェアリング、いやさらにいうと提供、片方向の情報提供を行っていたのである。

社会という情報共有体と家族という情報共有体。それは言語と時間と場所という制約によってひとつのコミュニティを作り出していた。
メディアは、たしかに過程という情報共有媒体に風穴を空けたが、それは情報提供媒体であって、本質的な性質は本や教授とかわらなかった。

しかし、携帯電話を初めとする新たな媒体は、そこに「双方向性」をもちこんでしまったのである。テレビによっては、家族は与えられたインフォメーションを共有するだけだった。テレビとの間ではコミュニティは生じない。(双方向性がない)
しかし、携帯電話における「メール」は時間と場所を共有しない他人とのコミュニケーションを、共有する人たちとのコミュニケーションとオーバーレイさせてすることを可能にした。

おなじような状況では、MSNMessengerをあげることができる。双方向の情報交換をするさいに、まったく違う他人と電話と変わらないようなコミュニケーション密度で複数人とすることができるのである。

残るは言語の壁である。これで言語という制約が取り払われたとき、何が起こるか全く見当が付かない。
ネットワーク形成が、完全にトポロジーをなくす。
コミュニケーションコストが、近くにいても遠くにいても変わらなくなり、そしてそのコミュニケーション密度もかわらなくなったら、(コミュニケーションの密度は純粋に認知的な問題であると私は考える)コミュニティ。ネットワークコミュニティの世界になる。

近くの他人より、遠くの友人。まさにオーバーレイネットワークの世界。そんな世界がくる可能性はある。

そしてそのとき、問題になるのが、
物理的に接触する人間と、精神的に接触する人間の乖離である。

こういった状況が想定できる。

有る人間の精神世界は、ネットワークコミュニティ上の個人と共有され文化を創る。文化を共有した個人間で、その精神世界は熟成される。メディアリッチなコミュニケーションにより、その個人の常識と道徳と判断基準は、その偏ったコミュニティの影響を大きく受ける。
しかし、その有る人間の物理的な存在は、例えば日本の世田谷区に縛り付けられる。彼の常識と、彼の周りとの常識は大きく乖離する。

これまでは、同じ地域にすむ。つまり物理的な存在の規定される場所を共有するということはイコール、双方向のコミュニケーションを行い、文化を共有すると言うことであった。

しかし、マスメディアの登場によってそれに風穴があいた。若い子供はロックに目覚め、若い女は化粧に目覚め、地域の文化共有とは違う風邪を吹き込んだ。
ただ、マスメディアは、「全体として一つの方向性を示したにすぎない」日本国民全体の方向性を付けて、コミュニティ全体のベクトルに作用したにすぎないのである。
逆にマスメディアは、全体として一つの方向性をしめすことにより、遠隔地間にすむ、日本国民間での文化共有をすすめ、全体の統一を強固にした。

例えば、初めて会う人同士でも、「××のファン」ということで意気投合できる。「××のバックが好き」ということで意気投合することが出来る。初対面の人間とも、ある一定の常識を共有するようになるのである。これはマスメディアの功績である。
教育装置としてのマスメディアとでも言うのであろうか。そこでは、有る人間の地域性と精神は一致する。情報ソースは一様に広範囲に情報を提供するからである。

しかし、しかし先の状況、それはニッチなメディアが大量に登場したときに発生する。一種の社会混乱状況の原因となるだろう。
物理的に接触する人間が相互に文化を共有しない可能性があるのである。

明日会う人と、まったく文化を共有していなかったらどうなるか。たとえば、
明日会う人は、イタリアな文化をもっていて、挨拶はディープキス。なんて文化を持っていたりするとしよう。日本の淑女は卒倒するはずだ。
明日会う人は、牛肉なんて絶対食べれないヒンドゥー教徒だったとしよう、貴方は知らずにしゃぶしゃぶに出かけて、彼に刺されることになるだろう。

暗黙知を共有しない人間とのコミュニケーションは、「国際」であった。「国際理解」なのである。文化は、「距離を隔てた時に初めて違いが生まれる」というような暗黙の理解があった。
しかしそれは本質を見ていない。文化は、双方向情報交換の濃淡によって違いが生まれてくる。暗黙知の共有を行うコミュニティがもつ意志決定と判断と趣向の傾向を文化と呼ぶのである。

将来的に、国際理解→隣人理解。となるかもしれない。
あらゆる隣人が、オーバーレイネットワークによってトポロジーを無視した接続をするようになったとき、道徳が消失する。

現代社会の法のひとつとしていわれる「道徳」は、国家内においてすら共有されない状況が来る可能性がある。

すると、国家の法と、個人の道徳の間に乖離が生まれる。(法学的な問題になるので話は出来ないが)ちょっとだけふれると、人を支配する法律は、ある一定の共通理解を持つ集団の全体の幸福のために設計される(されている)のである。しかしその前提が崩れる。常識というモノが存在しなくなると言うことは、物事の判断の物差しが人によって著しく異なる用になる可能性があると言うことである。

例えるならば、ヒンドゥー教徒25%キリスト教徒25%イスラム教と25%無信仰25%の国民を持つ国を考えて欲しい。

国民の25%は牛肉の販売を禁止しろと訴え、国民の25%は豚肉の販売を禁止しろと訴え、キリスト教徒はイースターを祝日にしろと訴え、無信仰は宗教法人に対する優遇税制をやめろと主張する。

4っにわかれるならまだ話は単純である。しかしネットワークによって形成されるコミュニティは非常に多岐にわたる価値観を持つグループに分かれるだろう。
多数派はそれでも生まれるのだろうか?わたしは生まれない気がする。社会が超個人的になる。そんな社会が来る可能性がある。

国家は、個人間の契約の媒体であるとおもう。集団をマネージする一つの装置である。国家を越えて集団が生まれるとき、それにはまだまだ時間がかかる。多分、言語の壁は思ったより大きい。しかし、それが次第になくなっていったとき、はたして国家はどのような姿をしているのか?はたまたなくなっているのだろうか?
そんな時代の国家運営は、想像することも難しい。
posted by Cotton at 22:05 | Comment(0) | TrackBack(3) | 学問(studies) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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