いつの間にか人は有る一定の見識を手に入れてそれを中心にして物事を捉えるようになる。
なぜ?に対する答えは自分の中のロジックが提供するようになり、その答えは疑問視されることは少ない。
社会が常識を作り上げるのはいつからなのだろうか。
いつの間にか社会は有る一定の見識を手に入れてそれを社会運営の見えない基盤とする。
計り知れない物事や、どちらでも良い物事は、文化や常識と言われる共通概念が提供し、その答えが疑問視されることは少ない。多くの会社において、ビジネスが上手くいかなくなるのはいつからなのだろうか。
いつの間にか、それまでは上手く回っていたビジネスが上手く回らなくなり、会社という一つの文化を共有するコミュニティは消滅ことすらある。
人に置いても社会に置いても、会社に置いてもいつも言えることは、疑問視しないと言うことは必要悪であり、疑問視すると言うことも必要悪であると言うことである。有る側面においては、思考停止し反射的な意志決定を行うと言うことは、特にビジネスに置いてそして社会に置いて、ひいては個人に置いてもも必要不可欠である。
しかし逆に別の側面においては、あらゆる角度から疑問を投げかけ、常識と文化を破壊することも、全ての側面に置いて、変革の時に置いて非常に重要なステップとなる。
例えば、日常に置いて、全ての物事に疑問を払っていたら生活など出来ない。人は認知のプロセスに置いて情報の取捨選択をする。社会に置いてもそうである、社会が円滑に回るためには、思考や議論をせずとも周辺の人間とシームレスにコミュニケーション(意志疎通)が計れる必要がある。
企業に置いても、いちいち上層部が意志決定をすることなど出来るわけがない。
通常は決められた規則に従って、人間は自分の行動を規定するのである。
非常に大きな視点から言えば、社会における文化も、個人における常識も、「決められた規則」であるとは言える。
企業においては、規則を作る。それは上層部のマネージメント結果を構成員がいわば自動的に行うようにするためである。
個人においては、常識を作る。それは個人の人格の形成結果を、意志決定プロセスに置いて繰り返すことなく自動的に(省略して)行うようにするためである。別の言葉で言えば、自分の経験と学んできたこと、そして周囲の影響からある個人の常識というものは作り出されるのであって、それは個人の人格を規定し、個人の行動における判断プロセスにおいて大きな部分を占めるものであるが、それはすでに「結果」として蓄積されたデータベースであり、それは正しいと自己プロセスの中で認知したものであるから、その結果は省略されて人間の行動に反映され、結果として迅速な意志決定を可能にする。
社会に置いても、文化を創る。それは人と人のコミュニケーションの結果の蓄積であり、それは意志疎通を図ることなく、複数個人間で流通可能な一般認識である。これを全ての構成員が共有することによって、その「認識」を確認する作業を省略し、社会が円滑に進むことを可能にする。
どの場合に置いても、疑問視されることのない思考のフレームワークというモノは、効率化に貢献する。変革の必要のない時、そのフレームワークは多くの類雑な作業を省略し、集団もしくは個人の行動を非常に効率的にする。疑問視しなくなると言うのはそういう側面で必要であり、さらにいうと非常に有用なツールである。
思考停止。それは思考という人間に許された行為を敢えて、利用しないと言うことである。
そこにはあらゆるレベルで複雑な提起が含まれる。
人間が精算し行動する上で、有る側面においては部材として作業する必要性があったと言うことである。人間が効率的に精算をしていく過程に置いて、人間のもっている思考という過程が邪魔になる場合があった。さらにいうと、思考というモノを停止する必要性があったと言うことなのではないだろうか。
例えば、企業に置いて生産する上で、いちいち従業員が会社の規則に口を挟んでいたらまったく会社は生産することが出来なくなる。歯車がまわらなくなる。組織としての運営が出来なくなってしまう。
例えば、個人に置いて、いちいち全ての知識を否定していたら、働くことが出来ない。食べることが出来ない。死んでしまう。
社会に置いてもそうである。集団というモノが分かり合う際に、毎回毎回共通意識の共有をしていたのでは、社会は上手く回らない。出会った瞬間から分かり合うまでにいく年も要するようになってしまう。しかし今は常識というモノがある文化というモノがある共有情報というモノがある。古くは「日本人」という間で共有され、近くはTHE BEATLESによって共有され、現在はアニメやゲームで共有されている情報である。そういった相互理解の基盤としての「文化」がなければ集団は集団として機能しない。
「しかし、思考を停止する必要性は、次第に低くなっていく。」
会社というモノの生産は次第に知的生産に移り変わっていく。これまでのような厳密な思考停止のルールではなく、フレキシブルに変化する行動規範(時には文化という)として規則というものが次第に少なくなり、構成員はあらゆる側面で知的な活動をすることを要請されるようになっている。
何時のまにか、ロボットやナノテクノロジーが発展し、人間は思考することが生産における唯一の役割となる時代が来るかも知れない。そのような時代に、効率化のためのルールづくりは必要なくなる可能性はある。先進的な情報産業においてはすでに就業規則などと言うモノはなく、そこにあるのは集団としてのカルチャーのみである。
(そして、会社は、自分と会うカルチャーの集団となるだろう。そこで生み出されるアウトプットがオープンアーキテクチャな生産機構の中でかたちとなり、製品として世の中を流通するようになるだろう。企業(ここでは知的生産を行う企業)は次第にフラットな組織になり個人は規則に縛られるのではなく、会社に縛られるのではなく、自分のカルチャーにあった集団で働くことを望むようになるだろう。)
個人というモノも、多くの常識について考えるようになる。なぜ国と言うモノが存在するのか、なぜ戦争は起こるのか。なぜ私は生きているのか。これまでは考える機会もほぼなかった、常識としての知識は、余暇時間と行き方の多様化に従って見直されるようになり始めている。思考停止ではなくなる。人はそれぞれの思考のアウトプットとして、高次元の認知を実現するようになる。人の教育水準が上がってイクにつれて、人間は効率化のための思考停止を必要としなくなる。人間がいきるという作業に縛られなくなるにつれて、様々な文化が個人の中に生まれていく。(そして、人間は肯定されることを望むために、その考え方を共有する個人とあらたな常識形成をはかろうとするだろう。)
社会というモノも、文化という思考停止を見直す必要性が出てくる。情報技術の発達によって、自分とは違う文化があらゆるレベルから流入する時代になり始めている。そのとき、人は思考停止できなくなる。思考停止していた物事に関して、自分の国とは全く違う事実が流入し始めるからである。(友達にキスをしてアツく抱擁する欧米の文化は我々日本人にはなじみが薄い)結果として文化という思考停止は、社会という主体では機能しなくなる。個人というモノの多様化が進むにつれ、そして国や地域を越えて個人が結びついてイクにつれて、文化というモノはちいさな個人の中で共有されるモノになっていく。そして、社会と言うもの、ある集団。は次第に分化し、そして次第に結合し、地域という概念をはずれていく可能性すら有る。当初は同一言語を話す民族間に制限されると思われるが、次第に言語の壁は取り払われるだろう。想像してみて欲しい、明治時代の日本に置いて英語を話せた人の数を、そして今、世界で活躍する日本人の数を。そして、社会というモノは、解け合い、有る面では結びつきあい、境界が見えなくなる。一方では4人の社会であり、一方では60億人の社会である。
個人も社会も企業も、発想の分化には分化の理由があった。
しかし、しかし、次第にかたちは見えなくなっていく。発想の転換が必要になる。
社会と企業と個人(ここでは友人グループもさす)の垣根が見えなくなってくる。
思考停止をする必要は無い。我々は考え続けなければならない。
それは時代の流れから予測できる。
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