2003年07月01日

一日は短編映画、人生は長編映画

一日を楽しめば、人生はつまらなくなる。
人生を楽しもうとすれば、一日がつまらなくなりがちである。

一日を短編とすれば、楽しい今日は今日で完結する。
人生は長編であり、短編の流れが作り出す。全体最適か部分最適か、この矛盾は人生に始まりすべてに通じる。人の人生は映画作品だ。

 悲しむべきか、時として人はこの事実にあいまいにではあるが取り返しのつかないタイミングで気付く。もはやストーリーを修正することが出来ない地点で、気付いてしまう。そして、一つだけハリウッド映画と違うのは、これは現実であって夢でもハリウッドでもないということである。

 主人公は強くもなければ頭も良くない場合もある。逆に強い場合もあるが多くは違う。いつでもどこでも助かるわけではなく、時として始まった直後に終わることもあり得る。救いようのない物語も有れば、幸せすぎて目も当てられない物語もある。しかし映画と違うのは、自分は舞台設定とキャストを買えることは出来ないと言うことである。ポップコーンもなければ、400インチのスクリーンもない。はなはだ現実的な物語を構成していくのが、この映画の主人公たちであり、貴方自身である。。

 人々はそれでも面白くしようとする。難しいのは、短編的におもしろい人生を追い求めすぎると、長編としては面白くなくなる。そして、長編的におもしろい人生を考えすぎると、短編としてあまりにつまらないという事実である。

 明日のための投資は、短編としてはおもしろくない。日々勉強は、短編として切り出されれば、一日としてはつまらない。しかし、日々のつまらない蓄積があるからこそ、長編としての人生は高見に通じることができる。つまらない積み重ねは、長期的な成長につながる事が多々ある。

 一方、今日一日で完結していく短編は、長編を作り得ない。作るとしても例外的であるように私には思える。一日で完結し感動させ、そしてまとまりをもったものが、数千個も寄り集まったとして、すぐれた長編映画になり得るだろうか。恐らくは成らない。短期的な快楽を求め続ける人間が、長編としての人生を豊かな実りのある物に出来るとは、考え難い。

 人は自分の一生という脚本を、短期的、長期的なバランスの上に構成しなければならない。そしてそれは物凄く難しい。一つ一つの判断の構成をたかだか2時間分考えるのではなくて、数十年分考えなければ成らないからである。

 さらに哀しい事実は、「NGは無い。」ということである。

そう、ハリウッド映画は隠された多数のNGの犠牲で成り立っている。NGを覆い隠して完璧な物語となっている。もう一回取ってOKを作り出し、そして構成しているのである。しかし、貴方の人生に、NGは無い。失敗すれば、それも含めてあなたの脚本に成り、作品になり、その後のストーリーにつながりを持つ。今日が消えれば、それは二度とこない。しかし、それがどんなに最悪の今日であっても、それは明日につながってしまう。

人間の物語は、その誕生からして完璧たり得ない。
だからこそ、おもしろいという人もいる。だからこそ、おもしろくないという人もいる。

あぁ、こうして、人は消えていく。
posted by Cotton at 21:57 | Comment(0) | TrackBack(1) | 随想(essay) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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