2003年07月02日

夢判断

 今日は珍しい夢を見た。生き生きとした自分がいた。私は現実世界では考えられないほど生き生きとしていた。ここ数年間忘れ去っていた本当の自分の姿があったような気がした。 
 昔から自分という人間は、静寂と平穏を好まなかった。いつも変化に根ざし、変えていこう変えていこうとあがいていた。いつしか自分は、現状の自分に満足したふりをするようになった。変えていこうあがいてた自分は、もういなくなったのだなぁと、自分で自分を納得させていた。

 私はもう思い起こすことも難しいときから、いつもここではないどこかに自分がいることを夢見て、ここではないどこかに暮らす自分を夢見て、日々をやんわりと過ごして、夢の中で自己実現を図っていた。
 別に何かこれといって不安がったわけではないし、誰も友達がいなかったわけではないし、現実は楽しかったし、それはそれでエキサイティングだった。友達はたくさんいたし、学校の成績も悪くはなかったし、不安がたまっていたわけでもなかった。しかしながら、自分の中には、ここで生きる自分という姿は、かりそめであり虚実であり、ただ流れる中に流れている木の葉かなにかのようなものであると感じる心が、確かにあったのだ。
 時折考えることは、現実とはリンクしない世界の物事であり、自分の生活からはほど遠いところにあり、しかし不思議と、そのほど遠い世界に暮らす自分は、自分にとってよっぽど近い世界にあるように感じていたのである。

 私の周りからの評価は、いつもどこかに消えてしまいそう。が一番多いような気がするし、自分もその評価が気に入っている。どこにいても生きていけるような気がするとも言われるし、まっとうな人生は歩めないかもかもねとも言われる。では、まっとうな人生とはなんなのかと問われれば微妙であるが、私はそれこそ、まっとうなという言葉は嫌いだったし選ぶことはないと考えていた。
 自分は特別と考えていたわけではないが、人と同じはイヤだと思っていたし、自分が優れていたと感じていたわけではないが、自分はほかの人間とは違うのだと、いつもどこかで考えていた。いま個々にいる全ての人間とは違うとしても、自分は寂しくはないと考えていたし、そうありたいと常々思っていたものだった。

 そんな考え方が態度や行動に表れていたのか、人は敏感に私というものを感じ取ってそのような評価をしてくれたのだと思う。なるほどその評価自体は別に否定的なものではなかったのだが、どこか彼らも、私という人間は自分たちとは違うものだと考えている節があった。私は人を否定しようとは思わないし、彼らに否定されるような行動は慎ましやかに拒否していたし、道化を演じることで彼らの同情であれ微笑であれ得ることで、彼らに受け入れられるような努力をしてきたのも確かだった。
 自分が最大限に嫌いな人間であっても、そいつが嫌いと言うことをその人間以外の人間の前で話のネタにすることはあっても、しかしだからといってそれを表面に出して嫌うことなどまったくもってなかったし、それ以上にそういうたぐいの人間とは仲良くし自らの保身を図っていたと言うことでもある。
 
 夢の中の自分はまったくもって幸福のようである。自己実現を完全に図り、悩むことなどなく、思う存分生命の危機を楽しんでいた。それは不定期に訪れる。別にこれと言って悲しいことが現実にあったというわけでもなく、よほど楽しく人生はすばらしいと感じていた時に限ってというわけではなく、現実と全くの相関関係なくして、突如として自分を困惑の中に陥れる。それは夢の中でではなく、現実に立ち返った自分を困惑の中に陥れる、凶暴な力を持つもの、それが私にとっての夢であった。
 もはや麻薬のようなものであった。現実という束縛の中にとらわれていた自分は、いつも夢の中で破滅的な快楽におぼれた。現実におけるいかなる幸福や苦悩よりも、夢の中で体験する苦痛と快楽は勝るものであった。誰にも見つからないように、私は夢にふけった。別にその内容がどうというわけではない、自分という人間が現実という限られた空間に飽き飽きしており、現実の中の人間関係に疲れ果て、生きる意味なるものを破滅的なたしなみに求めていた事実を、私はひた隠しにしていたのである。
 一時は全てが夢になればいいと思っていた。現実というものの意味を完全に無くし、しかし私はそんなことはまったく他者にみせることもせずに、日々狂乱に酔いしれ、それこそ堕落の中に過ごしていた時間すらあった。現実において私を慰めるものは何もなかった。およそあらゆる行いが過ぎ去っていくだけの価値しか持っていなかった。
 
 自分はいつしか、そのような世界を抜け出ていた。もちろん夢というものを見ることが無くなったというわけではないのだが、しかし逆に夢を見ることを失っていってしまったような気がする。
 誰も彼もいつしか少年の夢を無くし、現実の中に自分の居場所を求め、そこに定住し、いわゆる幸せというものを獲得している。それは否定することではないのはもちろんであるが、しかし少年時代の私の価値観がいつの間にか崩れ去っていたと言うことは、少年時代の私には想像も承認も出来ない現実なのであった。

 振り返ってみて、現実が楽しくなったというわけではないと思う。別に大幅な成功をしたわけでもないし、昔に比べて精神が幸せに包まれているというような事実はみじんもない。何が変わったというと社会的な評価が少しばかり高い場所に拾われただけであって、それを慰みものとしか感じない私にとって見れば、それは些細なことであるはずであり、自分自身として何か変わったわけではないと今までは思っていたのだった。
 生活に追われているわけでもなかった。学生というすばらしく怠惰な身分にいる私は、別にいざとなれば親にすがればよいし、稼ぐ理由もなければ、現実に束縛される理由もないはずなのに、しかしその精神は生活という壁に追われ、明日をもしれぬ状況に陥れられたように感じ始め、これから先どうやって食べていくのかという現実的な問題にばかり追い落とされようとしていたからかもしれない。

 君はすごいねと言われるとこに危機感を持っていたのかもしれない。自分はすごくない。と繰り返し周囲に言いふらすことにより、自分という人間のイメージが崩れていくことに対する防波堤を構築し、失敗という恐怖を出来る限り緩和し、みんなすごいね、ぼくもすごいよと他人を認め自分も認めることにより、他者に自分を否定されることを日々恐怖して生きてきたからかもしれない。
 いずれにせよ、私は夢を見ることを忘れた。現実という檻の中に閉じこめられている。あの解放の日々は過ぎ去っていた。全てを否定し、自分という固まりを作り出していた時代はいつの日か終わりを告げていた。それが何を意味するのかは分からない。しかし頭脳ではなく本能の部分が、固まりに閉じこもる自分に返って危機感をもたらしたのかもしれない。旧来、現実という理不尽な檻の中に囲い込まれることに危機感を感じていた自分の本能は、今逆に固まりに閉じこもる自分に恐怖を感じ始めていたのかもしれない。そして私は、ある日突然、この夢によってその事実をたたきつけられた。
 
 全て私の本能がおそれるものは、それは全ての人間に共通のある現実、死であった。ある時は精神的な死をおそれ、ある時は肉体的無しをおそれ、それは精神を型にはめられることに対する拒否にはじまり、精神を自由に保とうとすることに対する拒否と移り変わりつつ私の人生に現れてきたのではないだろうか。
 あのとき私は、精神的な死を恐れていた。現実という厳しい枠の中に自分の精神が閉じこめられ、そして活力を見失い、時運というものを否定することが求められるようになり、それを拒否できない自分となり、いつしか抵抗を忘れ、歯車とまではいわないが、大きな何かを見失ったまま大流にながされゆく枯れ葉となってしまうことが怖かったのではないか。
 では今はどうだろうか。私は精神的な死を遂げたのだろうか。それとも精神的な成熟だろうか。そのどちらでもないのだろうか。なぜ肉体的な死を恐れるようになったのだろうか。精神を何らかの枠にはめてでも、肉体的な幸福を求めて生きていくことを選ぼうとしているのはなぜなのだろうか。

 私の本能は、肉体的な危機に遭遇し、精神を切り刻んでも肉体の生命を保とうとしている。今私の精神は、もはや現実世界から別れを告げようとしている。精神的な死を選ぼうとも、私という人間は未だ肉体的な存続を図ろうとしている。肉体的な存続が意味するものは、ただ単に死を待つだけの存続である。しかし圧倒的な現実の中で、私は死のうとしている。この夢は私の最後の叫びのように思える。今私を包む絶望は、現実からの撤退を意味し、霧のように消えていこうとする意思表示なのかもしれない。
 
 それが大人になるということならば、それは私にとって死である。
 崩れ落ちていった夢を眺めて、興奮している私は、哀れである。

 彼岸に咲く花は、今やか弱く美しい。もはや届かないと私が思いこんでいる、私が選ばなかった現実はこれほどまでに美しく私に映っている。少なくとも確実なのは、現状というものが私にとって苦痛であり、隣の芝を褒め称えている自分がいると言うことであり、今の自分にはそれをかえる力がないように思えていると言うことである。
 
posted by Cotton at 21:55 | Comment(0) | TrackBack(1) | 文学(composition) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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