小学生は者メールを使いこなし、モバイルインターネットでコンテンツを売買し、そして友人達とテキストベースコミュニケーションを日々繰り広げている。
無論、自分たちもそういう新しい人類であることは分かっている。キーボードで文字を書くなど、30年前には皆無に等しい行為であったのにもかかわらず、今私はこうしてキーボードで文字を書いている。
世代は繰り返していく、私がそう思っているのと同じように、私の父や祖父はおなじように私たちをみていたのだろう。いまや人一人の一生の内に変化が見える時代となったということを身にしみて感じる。
私自身の生体的な、絶対的な限界時間は、あまり100年前から進化していないが、しかし私の周りと比べてみると、私たちの相対的な時間は、ひどく長くなっている。
周りがドックイヤーならば、逆に私たちはより多い変化の中を生きることが出来るのであって、より大きいアクションを経験することが出来るのであろう。
平均寿命60歳が80歳になろうがたいした違いはない。しかし10年前になかったものが今世の中をドラスティックにかえており、20年前になかったものが、世の中を定義しており、30年前にあったものがクラシックであると考えられているこの時代は、私たちの見る、聞く、体験できるものとしての人生を、限りなくextendしているように思える。
それが私が、現代に生きて良かったと肯定的に考えられる根拠であり、どのような絶望にあっても死のうとせずに生きようと考えている理由でもある。
いろいろとblogを眺めてみると、そこら中で変化を感じている人がいる。携帯電話で自律分散的に警察対策したり、FOMAでテレビ中継するなんてことは、よもや誰も予想していなかっただろう。
CDが普及しはじめ、ファミコンが普及しはじめ、自我が目覚め始めるとポケベルが出てきた我々と、生まれたときからPS2、ネットワークは当たり前であり、CDウォークマンやMDどころか、MP3を父親に買ってもらったipodで聞いている小学生とでは、根本的な思考回路が変わってしまうではないかと、今からジェネレーションギャップ、下からおじさんといわれる恐怖に恐れおののいている。
かの有名なアランケイ氏が講演で紹介していたSqueak(こちらなど参考にどうぞ)をはじめてみたとき、わたしは生まれて初めて説明書なしで理解できないパソコンのインターフェースに会った。それはこのありえない革新性が根本なのである。すべてのアプリケーションがシームレスにオブジェクト化されており、相互に連携できるのだ。たとえば、イラストレータで書いたイラストをフォトショップで加工した後、ストラタ3dかなんかで3Dにして、ジャバのようなプログラム言語でそれを動かし、それをプレミアで編集する。というような作業をシームレスにひとつのOS上でプラットフォームやアプリの違いを意識することなく実現しようとしていたのである。今のOSの発想とは根本的に違う。固い頭になってしまった私には用意には使い方が理解できなかった。小学生は簡単に使いこなすのに、である。
そのうち、自分では理解できないようなものに囲まれるときがくるのだろうか。今100歳のおばあちゃんは車や飛行機など存在し得ない時代から生きている。もし自分がこれから咲き長生きするとしたら、自分が今まったく想像も出来ないようなものに囲まれて生活する日々がおとづれるのだろうか。走思うとすこし悲しくもあり、うれしくもなる。
果たして私たちは、これから先の人生で何を目にするのだろうか。
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