2003年12月29日

世知辛い世の中

これはある学校のコインローカーの利用約款であるが、ちょっとよく見てほしい。

「いれてはいけないもの。」
(1)爆発物。
(2)死体。
(3)鉄砲。
(6)動物。

なんともしがない世の中になったものである。

 わからないでもない。多くの人間がいればもしかしたらそんな人間もいるかも知れない。しかしそういうあまりにも小さい可能性のために、我々は縛られることが多いのである。
 昔、銭湯に行ったとき、「15歳以上の男女を混浴させないこと。」という危険きわまりない注意書きがあった。はたしてどのような状況があったのかは創造に易しいが、しかしそんなクレイジーな人は一億人中いったい何人いるのだろうか。

 昔、日本料理屋に行ったとき、「当店はラーメン屋ではありません」という哀しい注意書きがあった。これはどなたか泥酔でもされたお客さんが、席に着くなり

男 「ラーメンをよこせ!」
店員「すいません、当店では、、」
男 「ばかやろう、そんなことかいてなかっただろうが!」
店員「当店は日本料理屋ですので。。」
男 「ふざけんじゃねぇ、ラーメンは日本料理だろうが」
店員「そうもうされましても、、」
男 「なんだとぉ?この詐欺師がぁ、そんなこと入り口に書いてないだろうが!!!」

というようなやりとりをはじめたのではないかと想像される。(著者の妄想かもしれないが、、、)

 そんな極端な事例抜きでも、たまにありえないような注意書きを目にすることがあるだろう。一部のロシア人の人が銭湯に石けんをつけたまま入ったために、「外国人お断り!」という注意書きを書いた小樽の銭湯のように、ほとんど起きないが、しかし衝撃的な事実のために、人はそれに対しての対策を作るようになる。それは本当に一部に過ぎないのに、しかしその一部が記憶に衝撃を与えすぎて、人はそれに過剰反応することが良くある。

 それは組織にも言えることである。明らかに駐車場が空いているのに、、しかし規則が、規制が、としてフレキシブルな対応が出来なくなる。いつのまにか、形骸化した規則が残り、しかしそれが我々を締め付けるようになる。
 世知辛い世の中では、すべてが形式知化する。しかもそのときに、その形式知化に失敗することがある。そして我々はそれに縛られ続ける。

 規則は、不確定な状況に対する反動として多く登場する。衝撃的な事件が、その規則の裏側にあることが多い。しかしその衝撃的な事件に対して、わかりやすい対応をするあまり、衝撃的ではない日常業務が危機にさらされることがある。

 しがない。世知辛い。そうとしか言い表すことが出来ない。

 人は契約文書に縛られていく。それはこれだけの大量の取引が、信頼関係無しにおこなわれるようなったため、仕方がない。貿易や企業間取引を円滑に行うためには、トラブルに対する対応をしっかりとする必要がある。見もしない人たちが会って、取引をするのであるから、信頼などないのであるから、厳密にトラブルに対する対策を明記する必要がある。
 逆に契約という仕組みにより、我々はこれほどまでに大きな取引を円滑に行えるようになったのだが、逆にこの仕組みにより、我々はインターネットで商品を見もしないのに買うことが出来る。世の中を効率的にし、経済をさらに発展させ、我々は様々な映画を手に入れることが出来るようになった。

 しかし逆に、我々は結びつきを失おうとしているのも事実である。横に広がりはないが、しかし縦に深いコミュニケーション。村でのみ流通する数々の神話。方言、文化、阿吽の呼吸。信頼関係。我々が失ったものも大きい。あまりにも大きすぎる。得たものも大きいが、しかし見えないところで多くのものを見失ってしまった。
 
 我々はこれから、さらに文化が交錯する時代に生きるようになる。伝統的な日本料理を数百年提供している店にしてみれば、ラーメンも日本料理だという伝統は受け入れがたい。しかし、そういった違いを持った人間同士が隣り合って生きるようになり、そういった違いを超えて経済的な結びつきを作り始めるようになっていく。

 世知辛い世の中になるのかも知れない。

 言葉抜きに共有された暗黙の知識の不足から、言葉に表現される知識が氾濫するようになるのかも知れない。プロトコルは共通化されるが、しかし逆に、不断は絶対に必要のない、ある意味無駄な情報交換が氾濫するようになる。
 どのような商用ウェブサイトにも、多分駅にも、空港にもどのような施設にも、多分利用約款はある。今は目立たないところにおいてあるが、しかしそれが目立つ場所に置かれる時代になるのかも知れない。ただ見るだけではなく、サインを求められる時代になるのかも知れない。

文化的背景の異なる人間対人間のトランザクションを実現するために生まれた形式的な知識の交換。それは今、文化というものの希薄化によりさらに進行する。それは一時期、規模の経済性により人に幸福をもたらすが、しかしその裏には忍び寄る影がある。小さいコミュニティで共有された信頼関係は、お金の貸し借りにも契約書を伴わない場合が多い。しかしそれらは今消え去りつつあり、よくもわるくも、誰もが理解出来る。自分とは全く違う文化の人もフォローできる形式に統一されつつあるのである。


あぁ世知辛い。少なくとも、信頼されていないという事実は、辛い。
posted by Cotton at 17:11 | Comment(0) | TrackBack(1) | 随想(essay) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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