2004年01月02日

煽る活字メディア:言論の自由がもたらすもの

ごく普通の本屋に行ってみるといい。それは別に片田舎の本屋でも良い。
そこには数々の触法疑惑が渦巻いている。手に取れる距離で、そこにはある。

 昔、中学生の時だった。パソコン通信の話題で、プラスチック爆弾の作り方などということを紹介している人間がいた。すでにインターネットが登場し始めていたところだったので、実際にそのURLを見てみると、そこには洗剤などなどで作れる爆弾の作り方が書いてあった。破壊力は今イラクで使われているくらいの威力だが、たぶんそれは個人的恨みを晴らしたり、日本の首都を混乱に陥れるには十分な威力だったと思う。(英語だったのであまり理解出来なかった)

 これに比べれば、ナイフを振り回すのは(もちろん最悪だが)まだましだともいえよう。当時の自分はもちろん興奮してその「プラスチック爆弾の作り方」を読んだが、しかしさすがに実際に作ってみようなどと言う気は起きなかった。だが、もし本当に追いつめられて世の中を破壊しようと考えている人間がこれを見たのならば、それによって数々の犠牲が出たのは間違いがないし、早々簡単に未成年や部外者が見ては行けない資料であることは間違いがなかった。
 もちろん、そのころは、まだBBSの影響力などびびたるもので、それにアクセスする人間などいるわけもなかったし、それを手に入れられる人間が、その資料を使うほどクレイジーな人間である可能性も、比較的少なかったのではないかと思う。私はパソコンでそのような情報にアクセスしている異常な人間の一種であり、たしかにまだ中学生であったが、しかしそういった情報があるという噂は立っても、実際にそれを見るのは非常に難しく、コアな情報源が必要だったので、それほど大きな問題にはならなかったのだとおもう。

 現代においても、きわどい情報、触法に近い情報をネットワーク上から手に入れるには、それなりの技術とリテラシーが必要である。インターネットからアンダーグラウンドな情報を手に入れて、実際にファイル交換ソフトやクラッキングソフトなどを利用するのは、まだかなりの困難を伴う場合が多く、危険も多い。この実現困難性が違法行為に対する防波堤となっていたのである。たしかに技術リテラシーの高い人間の社会的地位の向上により、インターネット上から様々な情報を手に入れることは、昔に比べれば比較的容易になってきたのは事実であるが、しかしそれでも、それが社会的インパクトをもたらすまでになるとは考えにくいとまだ考えることが出来た。
 ファイル交換、が問題になるといっても、そのような特殊な技術や難しい実現方法が一般的に使われる可能性はやはりまだ低く、私はまだ被害自体も実際は少ないのではないかと考えていた。2ちゃんねるのようなある意味閉鎖的なしかし密なコミュニティから、素人が情報を吸い上げるのはあまりにも困難で、その用語すらも理解しにくく、熟成されている文化のあまりの独自性に、有益な情報を取得するのは非常に難しくなっている。それこそ違法行為であることはほぼ確実であるはずの行為に荷担しているコミュニティであるので、やはり部外者を嫌う傾向にある。ある種、特殊ではあるが、リテラシーの高い人間達の集団であるので、誇り高く、高いレベルにある自分たちの集団を守ろうとする傾向が見られる。結果、違法行為を実現する情報を手に入れるのにはかなりの忍耐と努力が必要であるという状況は、今も変わっていないと言えたのである。
 また、昔々からラジオライフなどの電波系雑誌を中心として、あまりにも危険な使い方が可能な情報が流通していたが、しかし平積みされる性質のある雑誌ではなかったし、そこに記載された情報も直接的には違法ではないと思われる情報だった。それらは、まだ社会の本当にごく一部の「電波系」と言われていたコミュニティに対して提供されていたものであり、これほどまでに直接的に広く、比較的一般の人間に対して情報供給するものでもなかったはずである。

 しかし、需要有るところに供給は生まれていたのである。

 これらの本は、時にはコンビニエンスストアでも手に入る。書店では平積みでおいてあることがある。内容は非常にわかりやすく、「厨房」と罵る人間もいなければ、マナー違反を注意するコミュニティの宿老もいない。千数百円を払えば、非常に親切にまとめられた解説記事と、時には様々ないかがわしいツールを内包したDVDやCDを手に入れることが出来る。題名を見れば分かるが、「捕まらない方法」などというキャッチコピーすら見える。これは果たして、いいのだろうか?ファイル共有やDVDリッピングといった法律に接触する可能性がある話題を、これほどまでに簡単に書店で手に入れることが出来る現実は、すこし考えた方が良いのではないかと、私は懸念を表明する。少なくとも、記事の書き方を考えるべきではないのだろうかと思う。これほどまでに気軽に、出来る!大丈夫!と主張して本当に良いのだろうか、と非常に困惑する。

 言論の自由というのがあるというが、しかしこれは自由と片づけていいのだろうか。その背景にある責任を考えたことがあるのだろうか。売れるから、作る。売れるものを、作る。それは現代を作り出した自由である。それを肯定したことにより、我々人類はここまで進むことが出来たのも事実である。自由が、想像を生み、様々な価値が流通することにより、今まで我々は進んでくることが出来たのは事実である。しかし、自由には責任が伴うはずである。倫理といわれる最低限のマナーを守った上での自由であったからこそ、自由は機能し、そして有益であったはずなのである。こういった情報の提供には最大限の注意を払う必要がある。しかし少なくとも、その最低限を果たしていたようには見えない。

 風俗や、アダルトビデオ、タバコや酒、そして博打は、ある程度の許可の元に犯罪の抑制となっていた。人々の欲求を吸収する装置として働いていた。同様の文脈で、週刊誌やワイドショーはおもしろおかしく人生を描くことで、娯楽を提供し不満のはけ口として機能している。多くのメディアは物事を単純化することで複雑怪奇な実際の現象をシンプルに抽象化して、時には事実とは言い難い内容も含むが、それはそれで機能している。
 ただ、この種の著作権行為違反助長雑誌はこれらとは根本的に違う性格をはらんでいるように思える。それは、人々の価値観が共有されていないことに関して、簡単に出来る!便利だ!と情報提供している点である。レイプがテーマのアダルトビデオを見るとき、もちろんほとんどの男はその行為が「人間にも取る行為で処罰されるべきものである」という暗黙の理解を持った上での憧れを持ってそのビデオを見る。スリの仕方や人の殺し方に関しての本を見るとき、ほとんどの人間は、「人を殺すことはどのような教えでも否定されうる取り返しのつかない行為」という前提を持って見ている。博打を楽しむ健常者は、やはり「自分の周りには破綻の可能性がある」という知識を背景としながら、成功の可能性に欠けているのであって、ほとんどの人は歯止めという言葉を知っている。
 人々は、これらの行為が基本的には道徳的に問題がある可能性があるということを理解した上で、しかし捨てきれない動物的なそういった行為や行いへの憧れを、限定された実現を通して満たすのである。人は非道徳的、非社会的、非生産的、という世の中で受け入れがたいとされている行為に対しての憧れを持つことがある。清廉潔白の裏に潜む現実に対する憧れを懐くことがある。それらは普段は覆い隠されているのであるが、しかし単純に抑制するだけでは抑制出来ない人間の根元的な性質を含むものである。それらは、道徳的に各人の心の中で「間違ってはいるのだが、、」「いけないとわかっているが」という歯止めがあった上での限定的な実現を通して消化されているのであって、全くの否定なしに人々の頭の中で肯定されているわけではない。
 しかし、こと、この雑誌の主題となり得るような技術が関連する新しく生起してきた問題に関しては、人々はそういった暗黙で共有された価値判断基準を持っていないという特殊状況がある。これほどまでにコピーが簡単に実現出来る状況において、現状ほとんどの人間は著作権法違反という行為がそれほど悪い行為であるという認識は持っていない。だれもの中に歯止めがないまま、こういった雑誌があまり推奨されない知識を大量生産して配布しているのが現状なのである。

 また、いままでの活字メディアが取り上げてきた同種の話題と根本的に違う現実はもう一点ある。盗聴器や麻薬とちがって手に入れるのに費用、さらにいえばリスクが意識されないという点である。例えば万引きをするのにはあり得ないほどの緊張感の下で行う必要があるのは創造に易しい。見つかるかも知れないという恐怖のただ中でその違法行為を行う必要がある。痴漢もレイプも、意識して自分が犯罪行為をしているということが分かるはずである。盗聴器は2万円ぐらいするのが常であるし、爆弾を作るとなるとそれに必要な機材や材料を調達するのは難しい場合もある。しかし、ファイル共有ソフトをはじめとするソフトウェアによる知的所有権の侵害や、プライバシーの侵害といった行為においては、そういったリスクが比較的意識されていないし、また実際の費用もそれほどかからないことが多い。
 「今家でwinnyが動いているんだよ。」と気軽に喫茶店で話す。別に画面の前でどきどきしながらダウンロードするわけではない。ハッキングも比較的現実感の乏しい行為であるが、それよりもさらに現実感の乏しい行為として、著作権法違反という行為がある。100枚分以上のDVDを手に入れたと自慢する。200万円分のソフトウェアを手に入れたと勝ち誇る。情報というものに値段を払うという行為は、まだ一般市民権を得た行為ではない。だからその情報と言うものを正当な対価なく手に入れたという行為、自分が犯罪を犯しているというリスクを意識することは少ない。
 しかも、その行為はあまりにも簡単に実現出来る。用語が理解出来る人間で有れば、3分も有ればその行為に荷担することが出来る。しかもそれにかかる値段はタダである。そんなに技術が無くても、雑誌の断片的情報さえ有れば、あとは待つだけでどのような素人でもかなりの収穫が上げれるようになってしまう。

 人類の歴史の中で蓄積されてきた暗黙の知識、風俗や殺人、人権侵害、を悪ととらえる意識は、著作権法侵害にはいまだ及んでいない。その違法行為を行うのに必要な費用も覚悟もあり得ないほど低い。これらの違法情報は、義務も、責任も、そしてその下の次元である道徳も欠如した状況で手軽に配布されているのである。その土俵の上で、その違法行為を良として、それを実行するための知識と、それを実行したら得られる便益をおもしろおかしく記述するのは、煽っている。という行為以外の何者でもない。これらの活字メディアは制度崩壊を無責任に煽っているのである。
 無論、この責任はこれらを出版する出版社のみに限定されるものではない。新しい現実に対して、教育も社会制度も、法律も追いつけていない。その一例であるだけである。活字メディア以外に、これらの問題に対して大きな責任を負っている機関は山ほどある。しかしそれらが有効に機能していないが為に、需要に応じた供給が無責任に生まれるようになり、結果的に制度の崩壊を助長しているのである。

 誰もが変わりつつある現実を意識しながらも、それに対する対応が出来ない硬直状態にあり、そして気がついた頃には取り返しのつかないことになっているか、もしくは想像が破壊される専制状態に陥る過程にあるというだけの話である。そういった状況においては、全ての論理は部分最適で動き始め、より良い方向に向かうことはない。哀しいかな哀しいかな。良い方策というものが、私には浮かんでこない。
 ただ、一つだけ明らかなのは、こういった情報が本屋に氾濫しているという事実は、社会にとってマイナス以外の何者でもないと想像出来ることということである。
posted by Cotton at 19:59 | Comment(0) | TrackBack(1) | 政治と経済(Politics&Economy) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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