(本文中には、暴力・虐殺に関する刺激の強い写真を含みます。ご注意の上ご覧下さい) ゆったりと日々を過ごす中で、人々が大量に殺し合いをする現実は想像出来ず、核兵器反対。と叫んでも、その威力はまったくもって想像することが出来ない。平和な時間が過ぎることにより、人々はまたその悲劇に駆り立てられていくのだ。あり得ないような現実があったという記憶は、いつの間にか幸せの奥底に消えることとなり、その幸せに慣れ親しんだ人々は、どこかで行われている悲劇を過小評価する。あまりにも簡単に、戦略という名の下に平和ボケした指導者が意志決定が出来ることが、平和の中にまた戦争を創り出す。消え去ることがない恐怖の連鎖が、人類の悲劇をいつの時も作り出していくのである。
人類は、あまりにも簡単に忘れることが出来る。それは生きていくために、秩序を創り出すために必要なことなのかも知れないが、しかしそれは逆に言えば、悲劇を創り出してきた構造である。想像出来ないことというのは、悲劇の呼び水となる。自分が想像出来ないことは、簡単に無視出来るか、いいようのない恐怖の要因となるかのどちらかである。どちらの場合においても、過剰な反応を創り出すことになる。そしてその過剰な反応が、悲劇の呼び水となる。
それは、簡単に忘れるというだけではなく、想像出来ないという現実でも、同様の効果をもたらす。想像出来ないということは、やはり悲劇の呼び水となるのである。意志決定をするものは、その意志決定の結果もたらされる現実を理解出来ないまま意志決定を行うことがある。むしろ、ほぼ全ての意志決定において、責任ある立場にある人間は、それがもたらす結果について漠然としたイメージのみで判断せざるを得ない。それは必然ではあるが、それが原因として、ここの人間に落とし込まれれば絶対にして欲しくないような意志決定が、上層部で簡単に決議されることがあるのである。
忘れ去られるか、むしろ単に想像出来ないという状況が、非現実的な状況を創り出す力の集中と合わさって悲劇を創り出す。およそ多くの場合、哀しい意志決定はこれが原因としてうまれる。世界の悲劇の裏側には、いつもそれを想像しない、考えることが出来ない人間達の意志決定があるのである。そしてそれは、人間である限り消えることはない現実である。80年足らずの人生と、薄れゆく記憶と、物理的な限界、人間の構造そのものが、この悲劇を生み出す構造を創り出す装置なのである。
直視出来ない現実があったことを、我々は忘れようとしている。
民族大虐殺・アウシュビッツ
原爆・広島
悲劇は忘れ去られようとしている。消え去ろうとしている現実がある。戦場の殺し合いは、私たちには理解がしがたい現実だ。しかも理解が困難である故に、また起こる可能性がある。ベトナム戦争の悲劇に、イラクは突入しているという説があるが、それは事実のように思えて仕方がない。
ベトナム戦争では、多くの人間の反対を押し切り、民族自決の尊重を無視した。それと同じように今回も、国益の名の下に兵士を中東に送り、結果として毎日毎日米兵が死んでいるのだ。毎日起こるテロは、別にフセインを支持しているのではなく、別の支配者として降臨したアメリカに対する非難なのである。
それはアメリカの「国益」というものにとって必要なのかも知れないが、しかしその「国益」の優先を決定した人間達は、死んでいく兵士達の現実は知らない。殺されていく市民の無惨さを知らない。虐げられる、外国に蹂躙されるイラク市民の反発を知らない。
知らないからこそ、そのような決定をすることが出来る。もし、意思決定者が当事者として戦争と殺し合いの現実の最前線を知っていたとして、それでも今のような意志決定が出来るのだろうか。わたしは出来ないと信じたい。人間の良心を信じたいと思う。
暴言であるが、言いたい。
たかだかビル二つ壊されたくらいで、国を二つ滅ぼした国など、見たことがない。
5000人殺されたから10万人を殺し、微々たる安全保障のために兵士を超危険地帯に送り込む。そこには、認知のギャップがある。「ビルが壊された。」あまりにもわかりやすい現実、本土でテロが起こる。非常にわかりやすい危機。しかし国を滅ぼすという行為など想像も出来ない。いつ殺されるかも知れない環境に数万人の若者を送り込むという現実も非常にわかりにくい。
わかりやすい恐怖に対抗するために、わかりにくい大量の恐怖を生んでいる。それが今のあの国の現状である。あまりにも力を持ったあの国は、その力を暴虐無尽に使っているようにも見える。数千発の巡航ミサイルを撃ち込み、逆らうものに破滅を与えている。従う国は、憲法を無視してまでも従う。その力のはけ口となるのが恐いからである。
これらは一重に、権力の集中がもたらしている悲劇なのではないかと私は思う。現実的な危機の感覚を共有しない人間が指導者階級を構成するとき、現実的な危機に瀕する人間の気持ちなど考えることが出来ない政権が生まれる。イスラム教徒の国では、ヒンドゥー教徒の気持ちなど分かるわけがない。共産主義の国では、資本主義の文脈など分かるわけがなかったようだ。今日における問題も同様である。お互いの意思疎通が出来ない。分かり合うことが出来ない。それは国対国のレベルだけでなく、人対人、地域対地域、文化対文化、人種対人種、すべての違いが対立を生んでいる。互いに違いがあり、互いに、互いの現実を想像出来ない。想像出来るとしてもそれは限定的なものであり、完全に解り合うことはない。
その対立は、一方的な力の構造の下で見えない対立となっていることがある。上司対部下、大統領対兵士、経営者対労働者、非常にわかりやすい一方通行の指令系統の上で、それらは見えない対立となってひずみを作り続ける。片方が、片方を分かった気になって、意志決定を下し、結果的に悲劇につながるのである。これが想像出来ない現実がもたらす悲劇なのである。もし意志決定プロセスに、両方が介入することが出来るのならば、それは解決するかもしれない。ある人間にとって想像出来ない現実を、想像出来るある人物が諫めてくれるかもしれない。ただ、解りきっていることだが、それは言うまでもなく難しい。だからこそ、この構造は消えずにいままでも、これからも我々を悲劇に陥れていくのである。
想像出来ない現実。それは世の中にたくさんある。時系列上に消えていく現実も有れば、同軸線上において交わらない現実もある。しかしそれらは程度の違いすらあれ結びつき、互いに影響しあっている。時にそれは一方的な影響でもあり、それが他方の現実を浸食し不幸にたたき込む。
想像出来ないという現実は、人間には操作出来ない現実である。その現実の上で、それを覆い隠すことしか、我々には出来ないのかも知れないと思えるのである。
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