2004年01月10日

[信仰・信頼・絆・自信]がもたらす美と恐怖。

ある日突然、本気で打ち込んでいたものが目の前から消えて無くなったらどうなるのだろうか。
 
自分としては、
精一杯努力をし、自分の全てを費やし、圧倒的な情熱を捧げ、何よりも第一に考え、そのために誠心誠意つくし、自分の人生を占めるくらいに大きくなっていた物事が、一方的に崩されたとしたら、果たしてどうなるのだろうか。

自分としては、
誰よりも力を注ぎ、何よりも優先しようとし、そのために成長しようと自分を駆り立て、そのために良いと思うことは何でもしようと考えていた物事が、突然何の前触れもなく崩れ去ったとしたら、人はどうなるのだろうか。

夢のために、明日のために、希望のために、誰かのために、
競い合うことにも躊躇せず、嫌悪したくなるような現実にも目を背けず、社会の理よりも自分の思想を中心に据えて、むせび泣きたくなるような努力を繰り返して、少しづつ築き上げてきたと思っていたものが、ある日突然崩れたとしたら、私はどうなるのだろうか。

その瞬間の心境は、図りかねる感情の理解の出来ない融合体であり、ある意味美しく、ある意味自由にあふれているのだろう。滅びの瞬間。それはもはやそこには、コントロール可能な変数は存在しない。気付かぬ間に、自分がいくらあがこうが、醜態をさらそうが、土下座をしようが、すべての尊厳を返上して人間であることをやめることも潔しとしようが、自分にはどうすることもできない因果律の波の中にいるのであろう。

その中にいる自分は、もはや冷静に考えることは出来なくなる。時に人は、考えるという作業を放棄する必要性に迫られる。考えれば考えるほど、その理不尽さに全てに対する不信感が湧きあがってくるだろう。考えれば考えれるほど、その思考のひとつひとつが、自分をナイフで包丁でめったざしにしているような感覚になっていくのだ。

時として、人はそこで死を選ぶことすらあるその崩壊の瞬間。

自分のアイデンティティの一部を形成していた何かが消えた瞬間の絶望は、経験したものにしか分からない。そのありえないほどの苦痛は、周りからは全く理解出来ないことすらある。なんでそんなことでそんなに傷つくのかもわからないことがかなりある。言葉では、凄く辛いんだろうなと言うことが想像出来ても、実際の感覚としての残酷なまでの拷問は、その本人以外にわかり得るはずのない地獄の炎である。

例えば、恋人に捨てられたとしよう。
自分は精一杯相手のために尽くしていると想って疑っていなかった。そして相手も幸せを感じていると信じていた。’何もかも上手くいっているはずだった。はじめは冗談だった結婚も真剣に考えるようになった。すべては順調に動いている、「はずだった。」しかし、相手は幸せなどみじんも感じていなかった。楽しそうにしていたのは単なる演技で、目的は別にあった。自分が思っていた世界は現実には存在していない世界で、自分は相手の手のひらの上で踊っていただけの存在だったということはよくある。

例えば、
リストラされたサラリーマンであったり、
ボスに見捨てられた末端の鉄砲玉であったりする。

 この悲劇の末期に全て共通しているのは、片方が、信頼する。全幅を寄せて信頼しているにもかかわらず、しかし相手方がかならずしも新羅いていたわけではいなかったが、偽りの反応や行動を通して、あたかもその信頼に応えているかのごとく振る舞っていることである。
 本来で有れば、その幸せな、強固な、確固たる、確信に満ちた、主体間の関係は、相互の思考停止に近い信頼。つまり、あまり普遍的ではない論理を共有した主体の間に存在する特殊なインタラクションがもたらすあまりにも美しい関係である。
 しかし、それが一方通行となったとき、それはまったく異なった美しさに変貌する。それまでは、調和をもった虹のような、複雑に絡み合って周りからは理解し得ないが美しい、まさに美というのにふさわしい作品であったはずが、しかしそのバランスが崩壊した瞬間、その中で環流していた莫大な量のエネルギーの暴発を招き、様々な感情の融合体が一挙に襲いかかってくるのである。
 双方向から、強いエネルギーを送りあうことによってバランスを保っていたものが、他方の他方に対する調整を伴わない拒絶により、その枠組みからはみ出して暴走する。片方のエネルギーの受取手が突如消え去り、そのエネルギーは個人の内面、外面両方からその個人とその個人の周辺に対して計り知れない影響を与えるのである。
 主体と主体の間で環流していた膨大なエネルギー。それは普段は目に見えることも理解することも出来ず、その閉じられた空間のみで行き来していたものである。しかし片方が、突如片方からのエネルギーを受け取るのを拒否すると、その瞬間今までは自分の中ですら意識することが出来ないでいた大量のエネルギーが、自分に、そして他人に圧倒的な影響力を持って津波のように押し寄せてくるのである。

 コントロール不能の感情、それはまた違った美しさを見せてくれる。個体の思考を完全に乗っ取ることがある。殺戮の事件をもたらすことがある。他社からは理解不能のロジックが構成され、狂気と混沌の支配する精神世界が現出することがある。
 それまでも、主体間で共有されてた理解不能のロジックに基づく、膨大なエネルギーの交流が、その関係の美しさを創り出していたのだが、それからはその膨大なエネルギーが、収まりきれない一つの器の中で踊り狂うその激しさが、消え去った後の荒野を美しく満たすことになる。
 主体間で共有していた状態では、主体個々では持ち得ないエネルギーが存在することができる。例えば特別な関係にある二人のエネルギーの許容量の合計は、一人の許容量と一人の許容量を単純に足した分以上の許容量を持つ。であるからして、特別な関係は膨大なエネルギーの環流を内包することが出来るのであって、そしてその関係性が一方的に遮断されたとき、そのエネルギーの調整がまだ済んでいない片方の主体に深刻なダメージを与えるのである。

 関係性を遮断した側にとって見れば、それは必要のないエネルギーの流入をカットしただけの話であって、まったく問題のない話である。自分一人でもエネルギー収支の帳尻は合う。別に調整の必要はない。まるで燃えさかっていた炎が、いつしか真っ白な灰となってストーブの底辺と、空の彼方に消えていくように、自然の摂理と同様に、そのエネルギーは分散していったのである。
 しかし他方にとっては、激流をダムでせき止めるようなものであって、そのまわりの自然に大きな影響を与える。生態系は破壊させ、川という自然に不自然な人工物が横たわることになる。しかもそれだけでなく、時としてそのもろく崩れやすいダムは、その川の流れの影響する地域に深刻な被害をもたらすのである。

 他者に共有出来る論理を共有しない関係性がもたらす芸術は、均整の取れた美であって、それは人間で有れば誰であっても好感を持つことの出来る美である。その芸術は、その芸術が失われた後であっても、また違った美しさをそれを観測するものに提供してくれる。しかしそれと同じくらい、滅びつつある関係性から崩れ落ちていくエネルギーの断片、消えたくないと必死にもがきながら消えていくエネルギー、残された個体にまとわりつきその個体をむしばみ、時として個体のみならずその周囲を破綻に追い込む特殊なエネルギー、それらが作り出していく混沌は、むしろさらに美しい。

 滅びの美学とでも言うのだろうか、消え去る、むしろ消え去ったものの中から生まれてきたエネルギー、居場所を失ったエネルギー、そのエネルギーは生きようと生きようと必死で、半分残った居場所を破壊していく。その破壊は劇的ではあるが、しかし必然性を伴った破壊であり、必ず起こるだろうと保証されている破壊でもある。個人単体では、決してそれほどのエネルギーを生み出すことは出来ない。個人の中に、到底個人では抑えきれないエネルギーが閉じこめられた状態、それが突如一方的な関係性の解消の後すぐにやってくる混沌に満ちた世界である。
 その世界は、自分という存在に多大な修正を迫る。その膨大な行き場書のないエネルギーをなんとかして処理するために、人は意識的にでも無意識的にでもありとあらゆる対処を選択無しに迫られるのである。時としてそれはエネルギーの器たる自分の破壊であり、時としてその関係性を再構築するための一方的な努力であり、時としてそれは方向性のないエネルギーの暴発であり、時としてそれは自分内部に、失ってしまった片方を創り出す運動である。

 一つの例を挙げるとするならば、最愛の人を失った人としよう。
 時としてその人のエネルギーは、自分を傷つける活動、過食症、拒食症、ナイフカッター、薬をうつ、お酒、などに向かう。
 時としてその人のエネルギーは、その最愛の人を再構築するための努力、生きていると信じる、ストーカー、最愛の人を奪った主体を消す、なぜに消えてしまったのかに関する結論と答えのない議論、相手に選ばれなかった自分の生活を消す、今の相手を否定する、などに向かう。
 時としてその人のエネルギーは、暴力、殺人、暴言、あらゆる犯罪、狂乱(叫び、わめき、うめき)、あらゆるものの破壊、などに向かう。
 時としてその人のエネルギーは、その人の中にその人を創り出す。それは他者に投影される場合もある。自分の中に最愛の人を創る、その人に似た人を好きになる。人形などに最愛の人を投影する。仕事などその最愛の人のイメージを好きになる、などである。
 人間の中にため込まれた膨大なエネルギーは、今述べた四つの方向性の合成ベクトルとなって発散されていく。上下左右全ての方向にエネルギーは解消されていく。時折ある特定方向のみにエネルギーの放出が偏ることがあり、悲劇をさらに甚大にすることもある。
 
 崩壊。

それが生まれるのは、そのエネルギーの調整や利用が出来ない場合である。普通多くの場合は、自分で食い止めることのできないほどのエネルギーを、他の主体との信頼関係上に構築することはない。しかし夫婦の関係など、特別な、例外的な関係においては、この特殊な関係が構築される。そしてそれが崩壊したときであっても、その崩壊が徐々に調整を伴ったものであったり、また残された主体の精神的なマネージメント能力が卓越していれば、崩壊は発生しない。

 しかし、それでも崩壊は発生する。
 そして、その美しさは例えることが出来ない。

 その渦中に自分が追い込まれれば、もはや自分自身のみでコントロールすることは出来ない。自分という人間は行き場を失ったエネルギーに完全に主権を奪われるからである。社会のどこにおいても崩壊の危険性はある。それは自分を完全に破綻させる恐怖であり、人間は本能的にその恐ろしさを知っているように私は思う。
 なぜ、特殊な結びつきにある主体間の関係がこれほどまでに羨望を集めるかは、その恐ろしいほどの崩壊のリスクを本能的に理解した上で、しかし構築されたエネルギー共同体であるからである。人間はいつもその関係が崩れることに恐怖しながら、しかし今日も崩れなかったことに心理の深淵で安堵しながら、その関係があることに幸せを感じているのである。「信仰・信頼・絆・自信」がもたらす幸せの背景にあるのは、一面でそれがもたらす個人では共有出来ないエネルギー貯蔵の実現であり、一面でそれがもたらす可能性がある崩壊が今日も訪れなかったという安堵である。
 これらの特殊関係は、お互い、主体と主体が相互に崩壊はないと信頼した上で生まれてくるゲームである。お互いが裏切らないことがもっとも利益のあるモデルである必要がある。しかし、時として片方の主体の認知がかわる時がある。片方の信頼を裏切った方が自分の利益になると判断しうる環境にもう片方の主体が置かれる状況である。

 その時、この信頼関係は崩れてしまう。

 崩れた瞬間。崩れる瞬間。崩された瞬間。私はどうなるのだろうか。私はどうなってしまうのだろうか。私はどのような想いに支配されるのだろうか。どのようなベクトルに向かうのだろうか。理解しても理解出来ない状況は、私をどこにつれていくのだろうか。
 私は人間を信頼することが出来ない。だからそんな関係は作れそうにない。なぜならあまりにも大きく崩壊する可能性を考えてしまうからである。心の奥底でいつも、この人もそのうち自分を裏切って消えていってしまうのかも知れないなぁとおもって生活しているのである。
 その両者間に共有された甘美な世界に自分も足を踏み入れたいといつも切に思っている。しかしそれにたいしてふみきれないのは、その崩壊がもたらすものの恐怖が、それがもたらす感情の世界よりも遙かに大きく自分の中で感じられてしまっているからであると想う。
 自分の人生の中には、あまりにも多くの裏切りがあった。それは肉親であれ、友人であれ、恋人であれ、信仰に近いほど相手を信頼していたのに、唐突にそれは裏切られ自分に膨大無尽蔵に近いようなエネルギーの流入もたらした。
 自分は今まで、そのエネルギーに耐えることが出来ていた。狂いそして散ることはなく、今この場所においても文章を書くことが出来ている。しかし私は恐い。次のときには、自分はもうその崩壊に耐えることが出来ないのではないかとあまりにも大きな恐怖に支配される。
 周りの人は言う、踏み出さなくちゃ始まらないよという。しかし私は踏み出したことがあり、その結果あまりにもおおきな破綻を経験してきた。その結果得られたものはたしかに大きな幸せであったが、しかしそれが最終的にもたらしたものはそれらの幸せを全て消し飛ばしてもあまりある破綻であり、もはや私はこれを「信頼」することが出来なくなっている。
 この世界の中で多くの人はその破綻を経験せずに生きていくことが出来ている。あまりありえないような破綻を経験せずに生きていくことが出来ている。しかしそのありえないような破綻に対していつも自分は気をもんで過ごしてしまう。だれも何も信じることが出来なくなっている。どのような主体であっても信じることは出来なくなっている。

 この自分が、踏み出したとして、その非常特殊な信頼関係に自分を再度埋めることに成功したとして、果たして自分は、果たして自分は、それが崩壊した瞬間に人間の形を保てるのだろうか。保てるはずがない。保てるはずがない。その破綻は破綻の瞬間に自分を死ぬよりも苦しい苦痛に誘うだろう。
 しかもその破綻を予防することは完全には出来ない。その破綻を決定するのは他の主体であり、自分がコントロールしようと想ってもコントロール出来ない主体である。それに対して自分は、何が出来るだろうか。果たして、このように恐怖に満ちた思考回路によって精製されている自分は、その可能性を考えることなく生きていくことが出来るだろうか。
 自分は完璧人間ではなく、またどちらかといえば他人の考えを分かることが出来ない人間である。特に異性が何を考えているのか、何をして欲しいのかに関する知識は、恋愛としてあっても、片親がいなかったことから他の人間に比べて圧倒的に情報量が不足している。
 自分という人間はあまりにも厚い殻で自分という弱い存在を覆い隠し、あまりにもか弱くもろい自分にとっては辛いことだらけのこの世の中を何とか生き抜いているのである。そんな自分は、次の破綻には耐えられそうにない。そして次の破綻を呼び込みやすい性格である気すらしている。

 他者から見たとき、その崩壊はあまりにも美しい。しかし自分が崩壊するとき、それは漆黒を漆黒で塗りつぶしてもまだ足りないような闇である。その崩壊は肉体的にも精神的にも自分を完全に打ち崩し、再生の可能性を奪うほどの崩壊である。まったくの他者から見たとすれば、それは滅びの美である。超新星爆発のように、ものごとの最後が持つ美しさである。貴重な刹那な、二度と訪れることがない瞬間がもたらす美であり、そうそうみれるものではない圧倒的な破壊力を持った崩壊がもつ魔性の魅力が、その美しさの根源である。
 しかし、自分がその状況に置かれることを想像したとき、自分は胸が縛り付けられ、そして巨人に握りつぶされるような感覚にすら襲われる恐怖がある。そこには人間一人ではまったく対抗することが出来ない破綻が存在し、自分という存在を消し飛ばすことすらあり得るのである。
 そしてその破綻を迎える可能性のある人間は、さきほどもいったように精神的許容力の少ない人間であり、またマネージメント能力も大きくない人間であることが大きい。そのような人間で有ればあるほど、周囲に大きく堅く、そして厚い殻を持っているものだが、しかしこの関係性はその殻の防御壁を取り払ったその弱い自分をさらけ出してはじめて生起する関係であるから、破綻を迎える瞬間その人間を守っていた防護壁は全くと言っていいほど意味をなさない。

その瞬間。それは客観的には美しいと想うのである。しかし逆に、私個人としてはあまりにも恐い。
誰かに救ってもらいたいと想っていても、だからなかなか行動することが出来ないのかもしれない。
posted by Cotton at 13:23 | Comment(4) | TrackBack(1) | 文学(composition) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>例えば、恋人に捨てられたとしよう。

これ以下の文がすっごい実感持てた。なんでかっていうと、
ちょうどつい1週間の間に友達にその相談を受けたからなんだ。

失ったことよりも自分が信じてた相手が自分を裏切った(すごい切り口の別れ方だったから)ことのほうがショックだったみたい。
Posted by piroko at 2004年01月10日 19:55
すごい切り口の分かれ方か、、ショックはでかいだろうなぁ。たぶん失う。というのもいろいろあって、

自殺 他殺 自然死 事故死

裏切る 飽きる 喧嘩する

リストラ 倒産 定年

予測不能、もしくは考慮外で、突如であればあるほど、ショックはでかいのだとおもう。

信じてたのに二週間かそこら会わないうちに別の異性に引かれて去っていくってのは一番つらいパターンのひとつだねぇ。。
Posted by cotton at 2004年01月15日 22:48
定位、いわゆる「自分らしさ」をもって人と接しても、美と恐怖の関係を知ってしまうと、人は自然と自己創出的考え方になり、環境の出方によって自分の振る舞いを変化していく。適時適応とでもいうのかな。しかし、自分の存在に対する空虚さを抱き、また定位を求める。ここからの答えがとても難しい。

cottonはどんな答えをだす?
Posted by etokazu at 2004年01月28日 14:24
 etokazuさんのいう、自己創出的思考というのは、ある主体がいて、その主体が他方の主体との関係性が消え去るのを恐れるあまり、適時適応、すなわち他方の主体に従属的に合わせていく。
 しかし、そこから得られる幸福の二面性、つまりその二者間の関係の幸せと、自分自身の内面の空虚さのインバランスが生まれ、さらに不安定な、新たな安定を求める状態のまま浮遊するという問題について言われているのだろうか?

もし質問そうであるとしたら、答えとして私が提示する言葉は、

多分その状態は別に特殊な状況ではない、そしてその不安定な状態での安定が、主体と主体との関係のダイナミクスを創り出している。

ということだとおもう。つまり、ある主体とある主体は絶えずこの美と恐怖の関係性を暗黙的に意識しながら、そして自己創出的な要素、すなわち他者と合わせるという行為と、自分の定位の葛藤の中で生きているのだと想う。
それは意識されることはないが、だからこそ、人間は変わるのであり、関係というものはたえず変化しているのだと想う。

自分らしさとetokazuさんが言ったが、自分らしさというものは多少長いスパンではあるが絶えず変化しているものである。二者間の関係も、見えない変化が日々起きている。etokazuさんのいった状態は、事実でたしかに存在する。その状態はしかし恒常的に存在しうるもので、私たちを支配しているダイナミズムの一部ではないかと思う。

であるから、その状態から何が起こるかと問われたならば、社会や人間観の関係の未来のように、わからないと答えるのが妥当なのではないかと想うがどうだろうか。
Posted by cotton at 2004年02月01日 09:30
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