廃人とは、病気などのために、通常の社会生活を営むことが出来なくなった人。と辞書では定義されている。それは社会生活との関連によって説明されている概念であり、社会生活を営むことが出来ない人間は、別に本人が病気であると自分自身を認知していないとしても、廃人と分類される。
廃人といわれる分類には、多くの現代人が含まれる。それは一時的である場合もあるし、恒常的である場合もある。何らかの突発的な精神的ショックを受けた後、一時的な廃人に陥ることもあるし、継続的に社会生活から得た苦痛の累積により、廃人となる人もいる。
勘違いしてはいけないのは、廃人という状態は、非常に静的な状態であるということである。別にアルコール依存症であるとか、非行に走るであるとか、ある意味攻撃的な副作用とは区別される。
死に至る病というのは、絶望であるという。肉体的なダメージや病とはちがい、精神的な死の状態というのは、何よりも非人間的である。人間という生命体の持っている大きな特徴の一つである「社会生活を営む」という生活が実現不可能な状態となった人は、廃人であると区分される。
少なくない人は一時的な放心状態でその状態を抜け出すことが出来るが、しかし少なくない人はその多くの人が一時的な状態として抜け出る状態から抜け出ることが出来ない。一時的な廃人と恒常的な廃人の二つのタイプがある。昔、人間失格といわれた人間は、社会生活を営む中で社会通念に照らして著しく乖離した人間であった。それでも社会に参加し他者とふれあい、その中で失格の烙印を押されていった。(むしろ押したのかもしれないが、、)
現代における人間失格、それは静的なものからくる。社会と言うものから切り離されて存在する多くの人間がいる。そしてその世界に頻繁に落ち込んでしまう人がいる。それは私を含めてであるが、その精神の経済活動における破綻は、実は非常に近くに存在している。想像に易しいのは、「起きれない。」ということ。「行きたくない」ということ。むさぼるように寝る。社会とのつながりを絶とうとする。それらの行いの背後にあるのは、人間としての社会活動の破綻である。
必要がないのにもかかわらず、夜ではなく、朝寝る人がいる。必要がないにもかかわらず、一日中ベットから起きられないことがある。いけないとわかっていても、一日どころか何日もゲームをすることがある。家で同じ漫画を何回も読み続けることもある。意味もなくテレビの前に座り続けることがある。インターネットをただ見流す自分がいる。およそ他の人間から見ると精気の抜けた目をうつろに開きながら、廃人は取り付かれたかのようにその作業に没頭する。
無論廃人は、失格だと想ってやっていることは少ない。非常に個人的な、しかし合理的意志決定の元に、廃人といわれかねない行動と状態に自分自身を落とし込む。廃人と呼ばれる状態、それは別に異常な状態ではない。
廃人と呼ばれる状態は、私たちの生活のなかでの経験や状況が生み出したごくごく自然な状況なのである。その自然は、たしかにいわゆる、人間としては失格なのかもしれない。人間失格、と自分を定義した彼も、周囲の批判にさらされることで自分自身を否定に追い込んだが、しかし彼のストーリーは流れるように展開していた。彼は彼の個性で合理的な意志決定を行い、結果として人間失格となった。それは合理的であり、別に失格するために失格しているわけではない。結局社会は彼を失格に陥れたが、しかし彼は、失格しようと想って失格したわけではない。
オンライン上には、ひとつの社会がある。「朝の四時にFFであおう。」そう挨拶を交わすコミュニティがある。彼らは別に早起きに意味を感じているわけではない。24時間サイクルとは関係なく、その社会は動いている。その社会では、睡眠は必要なときに取られる。いわゆる我々の言う社会は、そのコミュニティではあまり意識されないことが多い。
テストがあろうが関係ない。別に朝の四時でもいい、いつだろうがかまわない。日本人であれば明治時代から「時間」という概念に縛られているのであるが、しかし彼らは縛られることはない。彼らはネット上のキャラクターと会話し、その中の社会で生きている。活発に活動するものもあれば、世界平和のために日々努力を怠らないものもいる。弱きを助け、強きをくじき、様々な困難に立ち向かい、勇気をふるって精一杯生き抜いているのである。
しかし彼らは廃人に定義されるらしい。テレビ画面上では彼らは素晴らしい人生を謳歌しているが、しかし端から見れば一日中画面の前に座っているひげもじゃ不潔な人間らしき物体であることも少なくない。テレビゲームにだけ夢中になり、風呂にも入らず寝てはゲーム、起きてもゲーム、外の世界に出ることはせず、物体としての彼はある家のある部屋のある場所から動くことはない。例え、コミュニケーションや達成した物事が彼にとって非常に素晴らしい物事であっても、それはほかの多くの人々からは理解されることはない。
ゲーム上でレベル99になって世界の悪の大王をタタキ倒すことは、非常に「社会的に」有意義なことであるが、しかしそれは彼の母親の属する社会からは認められることはない。それは漫画でも同様である。漫画の中で素晴らしい人生を歩む彼や彼女は、そのなかで社会的なインプットとアウトプットをバーチャルに経験している。自らの意識は画面やページの中の主人公に投影され、その中で生きる自分が素晴らしい人生や困難な課題に立ち向かう姿に、自分をなぞらわせている。
それらの活動の全ては、彼や彼女に非常に大きな満足を与える。あまりにも素晴らしい世界において、大きな存在感をもつ自分自身という存在が、彼や彼女をさらに引き込んでいく。相対的に見ても素晴らしい世界が、彼や彼女を待っている。彼や彼女はある閉じた社会において、ある開かれた社会においては実現不可能な欲求の実現を果たすことができる。
その欲求の実現はそれほど容易ではないことも多い。ただ不可能ではない。しかし、この世界は、私たちの多くが済んでいる理不尽な世界とは違う。根本的に違う。これらの閉じた世界においては、正しい手法を駆使すれば、もしくは或る程度の我慢をすれば、「クリアするために作られた社会」はかならずクリアーすることが出来る。「楽しませるために作られた社会」はかならず人を楽しませてくれるのである。
これらの社会は一人、もしくは限られた集団を楽しませるため、満足させるために作られた閉鎖的な社会であるから、私たちの住む社会のように不特定多数の個人の調整と資源の配分をする必要がない。ある種のユートピアとも定義出来る社会である。誰もが自己実現出来る社会、誰もが楽しむことが出来る社会、誰もが不幸にならない社会が、その閉じられた世界には存在してる。
その世界においては必ずと言っていいほど価値観を否定されることはない。必ず成功することが出来ると言っても良い。その甘い現実は、彼らの物理的な存在があるこの世界の厳しさが、まるでスイカにかける塩のような役割を果たしてさらに増幅される。「廃人」それは我々の物理的存在が属する社会から見て、廃人なのである。それはその精神が死んでいると言うことではない。その精神が我々の社会を向いていないということなのである。
彼や彼女らは、はやり自己実現を果たしている。閉じられた社会で、理不尽の存在しない社会で、作られた社会で、社会貢献を重ねる。その貢献が向かう先が、ゲームの世界であったり漫画の世界であったり、自分たちの理解出来ない社会であるから、多くの場合その価値は認められうることはない。しかし、多くの人々に認められ得ないという事実自体が、しかし少なくない自分の同士がいるという現実と併せ持って、自分の希少性をその個人に自覚させるにいたり、その、我々から見れば廃人といわれるような生活に身をゆだねる人を増やしていくのである。
社会というものは、非常に理不尽な構造を持っている。努力するものが必ずしも報われるわけではない。むしろ報われないことの方が多いとも言われる。努力にもいくつかの方法があるし、その個人を創り出すその個人の周りの構造がその個人の論理構造の大部分の形成に大きな影響を与えるとすれば、この社会上における成功や失敗というものは必ずしも個人の発言や行動のみに帰するものではないのである。
その哀しい構造が、闇夜に光る灯籠のようにゲームや漫画やありとあらゆる閉じられた遊びの魅力を浮かび上がらせることになる。まわりの世界が闇であればあるほど、おぼろげに光るその魅力は、或る意味の妖しさを持って多くの虫を誘引するのである。周りの世界が不安定で、周りの世界で頑張ることがあまりに不確実になったが為に、相対的に確実な社会で努力することの魅力を高めてしまうのである。
しかも現代という社会は、そういった廃人にも生きる道を与えてくれている。別に人生のかなりの時間を閉鎖的な生産活動に向けたとしても、しかし人は生きていくことが出来る。或る意味、物質的な存在である肉体を保つために必要な作業というのは、相対的に見て少なくなっている。重要性を増しているのは、その不確実性の中で生きる精神の安寧であり、寝ることや食べることと言った、有史以来人間が探求してきた根元的なものではない。
現代に生きる我々は、もはや生きることにはそれほどの労力を払わなくてよい時代になっている。昔のように立身出世をしなくては安定しない、生活に貧窮するという時代ではないようである。少なくとも現代の若者は、現時点において、単純な作業であろうがある程度の労働に従事すれば、最低限の生活をすることは出来る。その上でどのような精神的な充足を手に入れるかが、非常に大きな課題であり、その中で様々な実現方法が試されるようになってきているのである。
廃人の済む世界というのは、現実世界で手に入れることが出来ない栄光を手に入れることが出来る社会であるから、甘美なのである。例え、食べる寝るという基本的な欲求が満たされるようになったかと言って、それよりも高次な欲求である名誉であるとか自己実現であるとかより精神的な充足は出来ない。その欲求を満たすために我々は、多くの「自分」を作り上げようと頑張るのであるが、しかし精神的な充足を果たすことが出来る人間は、あまりにも限られている。
考えても見ればいい。誰からも羨まれる異性の恋人を手に入れることが出来るのは、そのコミュニティの中の何%だろうか。誰からも賞賛される能力を発揮出来るのは、そのコミュニティの中の何%だろうか。そしてそれらの能力は、努力すれば手に入るものだろうか。
多くの先天的な資質や、追いつくことがもはや難しくなってしまっている蓄積によってその差はすでにある個人にはまったくもって埋めることが出来ない境界として認知されるのではないだろうか。そして実際、その差というものは例え多くの先人達によっては容易に埋めることが出来るかのごとく喧伝されているとしても、実際は埋めることすなわちそれらを打ち負かして弱者といわれるものが絶対的優位に立つことは構造的に不可能に近い状態にあることも、多いのではないだろうか。
たとえば誰もが死ぬほどの努力をしたとしても、地位や名声などといわれるものは相対的なものであって、また異性を引きつける魅力というものも他者との比較から多くの場合導き出される以上、そこにはかならず敗者が生まれるのである。勝者といわれるものは多くの場合、全体の少数派であり、それ以外の注目されない人々は、その栄光を欲しいと考えているにもかかわらず、いずこかのタイミングでそれをあきらめざるを得なくなるのである。
自分の高校、中学校を考えてみて、なんでもいい、名声を得ていた人間は、全体の何割だろうか。ギターでも勉強でも陸上でも容姿でも家柄でも良い、誰からも賞賛されうる名声を、ある特定のコミュニティ内部という限定条件を付けてさえ、手に入れることが出来るのはそのコミュニティの限定された個人なのである。
そして、その限定された個人は、やはり別のコミュニティでも成功することが多い。或る程度の存在感は実現することが出来る。少なくとも自分の自信を揺るがすことなく、この社会に於いて生きていくことは出来るのである。それらの人間は問題はない。その賞賛は別にどれほど小さなコミュニティからでもいい。どれほど小さな愛でもいい。或る一定以上の評価をこの社会から得ることに成功し、その評価に満足出来る個人は、この社会で生きていくことが出来るのである。
しかし、その生きていける個人とは対照的に、精神的充足を果たすことが出来ない人間は、やはり絶対に存在する。誰と誰かの差が、誰かの賞賛や勝利を創り出すのだから、その影にはなんらかの破綻があるのである。勝利の影には敗北があり、幸せな愛は排他的である。優秀な人々は無能な人々を創り出し、平等な制度は非公式の不平等を作り出す。人間というものに差異が存在する以上、そこには評価が存在する。その評価はどれだけ公正であっても、しかしなんらかの判断を生む。人間は不完全であるから、完璧な判断などあり得ない。そして不完全な判断が人の不公平を生み出していく。
精神的充足を満たすことが出来ない人間は、多くの場合その充足をこの社会で満たすことが出来ない。それは全人格的なものではなくてもいい。ある人格の部分でもいい。人間はこの社会では実現出来ない何らかの欲求を抱えることがある。
社会的に非常に成功した人間であっても、性的に倒錯した趣向を持つ人間は多数存在し、そして仕事で高い評価を受けるのキャリアウーマンであっても、私生活においてはジャニーズ系の狂信的なマニアであることがある。スポーツであまりにも素晴らしい成績を残していたとしても、しかし排他的なゲームオタクである場合がある。
人間は、その全体であれ、部分であれ、なんらかの点でこの差異の中での存在感を築けない物事がある。しかし、悲しむべきことに人間はその満足を求めてあがき苦しむこととなるのである。
社会というものは、多くの人間によって成り立っている。であるから全ての人間が全ての欲求をかなえることは出来ない。誰かの犠牲の上に成り立っているのであるから、誰かが何らかの側面で犠牲を払っているのである。一つの社会においての構造は、誰しもにいずこかで犠牲を払わせる。しかし人間は贅沢な生き物であるから、そして偏見に満ちた生き物であるから、その犠牲に納得することが出来ないでその欲求の充足を求めてさまようようになる。
多くの人間によって営まれているこの社会は、旧来はかなりの安定状況に置かれていた。手に入れることのできる情報は非常に限られ、欲求を生み出す「発想」は著しく抑制されていた。情報が制約されているために、ある村に住む農民は農民以外の選択肢など発想することもなかったし、豊かな暮らしなどというものは彼の発想にはなかった。欲望の源泉はその欲望を想起させる情報にある。現代人は多くの欲望を想起させる情報に囲まれているのである。昔は存在していなかった非現実的な情報に囲まれているのである。
現代においてこの社会では消化出来ない欲求に関する問題がわき出し始めているのには、この欲求を想起させる情報と自由の氾濫がその背景にある。なぜ多くの人間が手に入れたいと足掻くかという問いに対する答えは、手に入れられるかも知れない距離に存在するかのように、まったく手に入れることが出来ない理想が存在しているからである。コンビニに行けば自分より遙かに可愛い女の子と、あり得ないほどかっこいいスポーツマンの新婚生活の記事を見ることが出来る。億万長者の生活と人生がシンプルに文庫本にまとめられており、自分のスタイルを貫いて成功したミュージシャンの人生を、毎週、もしくは毎日、知ってしまうことが出来る。
悲劇はそこから生まれる。知ってしまうことが、発想を生む。その実現不可能なはずの発想に基づく欲求が人を苦しめる。自分が何らかの意志決定をするさいに、自分ではとうていなしえることが出来ないはずの選択肢が、なぜか自分にとっては非常に近くにあるかの状態で自分の思考回路に登場するのである。自分としてはすぐにでも実現出来るほど、精神的に近い距離にあるその成功は、しかし自分の認知において近いのであって、実際は限りなく遠い。
その状態にたどり着くことが出来るのは一万分の一人にも満たないのにもかかわらず、しかしその情報はメディアの力によって数万人の選択肢に受け入れられる。数限りない発想が彼の頭の中に入っていく。数限りない発想へのチャレンジが行われる。片方で成功体験を持つ人間は、それでも社会に挑戦しようとし、そして或る程度の限定された集団内ではあるが、彼の発想に類似した状況において充足を実現することが出来る。しかし他方で、数多くの失敗体験や数多くの困難に直面し、それらの発想を知っていながらもそれを実現出来ない個人は、部分的にではあれ、全体であれ、廃人となっていく。社会で満たすことの出来ない欲望の実現を、この社会ではない社会で満たすこととなるのである。
人間は、だれしもその甘美な世界、閉じられた社会に魅力を感じる。しかし、それはやはり現実で得られる刺激に比べればまだあまりにも微々たる刺激である。従って多くの場合は、現実世界で同様の刺激を得るために挑戦をするのであるが、しかし中には、なんらかの経験や論理構造によって、現実、すなわち我々の住む社会ではない社会での自己実現に、自分の生活の部分、または全部を投入してしまう状態におちいってしまう人がいるのである。
それは私を含めてということであるが、自分の中のどこかを、非現実的な社会に投入することで実現させる人は多い。廃人という概念は拡大される。一日1時間でも、実際の社会には存在しない社会に、自己実現のための要素を意識的にであれ、無意識的にであれ投じている人は、その部分において廃人である。
絶対に実現不可能な恋愛や、絶対に手に入れることの出来ない能力を前提にした人生、経験すれば死に至るようなぎりぎりの体験、それらは本来であれば我々の発想に生まれるはずはない知識であるが、メディアの力によって我々はその知識を得るに至っている。無論そのような現実が実現不可能であることは感覚的にはみなが理解しているが、しかし我々の根元的な生理が、その発想がもたらした欲求の充足を求めるようになり、人はドラマや映画や雑誌や宗教においてそれを実現せざるをえなくなる。
限定された人々でしか、論理的に考えて実現することが不可能であるはずの欲求に、社会の大多数の人間が向かうことによって、その大多数の人間のすくなからない部分は、その欲望の実現を閉じられた社会で実現せざるを得なくなる。自分の周りにはない環境に関する情報を手に入れた個人は、その発想の絶対的魅力に取り付かれるようになり、それを求め始めてしまう。
その情報を得た個人は、その情報から得た発想を実現しているその閉じられた社会に逆に取り付かれる。廃人に至るプロセスは、いわば一つの循環である。発想を得るためにメディアに接し、そして発想を得たからこそ、その充足を出来る手段を探し求めるようになるのであるが、しかし逆にその欲望を満たすためにそのメディアにまた没頭することとなることすらあるのである。
このサイクルは誰にも存在する。目に見えない場合もある。しかし存在する。目に見えて廃人である場合、それはこのプロセスが次第に極大化していったものであり、次第にこの人間誰にでも共通して存在する現象からの乖離を始める。このプロセスが次第にある個人のある欲望の充足の大部分を占めるようになり、彼の周りに実際にある状況から乖離を始めるのである。
目に見えて廃人、すなわち存在のかなりの部分が社会生活に適合出来なくなった個人の場合、実社会がつなぎ止めるものが稀薄である。循環が非常に限定されたコミュニティ内での循環となる場合が多い。発想、それを得る場所がすでにこの社会ではない場合が多い。すなわち、本来補完的な存在として存在していたはずの閉じられた社会の存在がその個人の中で増すにつれ、その閉じられた社会がその個人の発想の原点となるという逆転現象が生まれるのである、この社会における欲求の充足のために行われた行為が、その行為がその個人の活動時間の中で占める時間を増すにつれ、その個人の発想の源泉となり、その人の発想を著しく一般の社会から乖離させることにつながる。
本来はこの社会において実現したかったことであるのであるが、しかしこの社会上に存在する発想は実現が難しく、またその実現によってえら得る効能を、実現したことがないため知ることが出来ない。そして閉じられた社会における欲求の充足は、実社会における充足に比べればやはり比較的矮小なものであるのだが、しかしその個人の中で繰り返し経験されてきたものなので、相当の確度をもって彼は得ることができる自己実現であるから、期待値を考慮したとき相対的に閉じられた社会における自己実現が彼の論理の中で重きを置き始めるのである。
もはや抜け出ることが困難な場合、その廃人の求める自己実現、たとえば性的なものであったり、暴力的なものであったり、金銭的なものであったり、名誉であったり、金であったり、能力であったり、地位であったり、なんでもいいのだが、その自己実現は、実社会で得られるものよりも相当の重きを持って、すなわち彼の認知の中で実社会での実現よりも相対的に重くなることを通して、彼を束縛しているのである。
それは別に理解不能なことではない。彼や彼女にとって合理的な意志決定を行った結果、この我々が生きる社会から考えれば「廃人」といわれるような状況に身を置くことになったのである。このプロセスは個人の意志決定の幅を超えて存在する。たしかにその道が、彼や彼女の欲求の実現にとって最短の経路であり、また時として唯一の選択肢であるのである。非現実的な発想から生まれた非現実的な欲望が、彼や彼女を支配するとき、その現実化にたいする欲求にその個人は縛られる。その欲求を限定された小規模なコミュニティであれ実現することが出来る個人は、自分らしさという納得の作業を通して現実世界で生き抜いていくことが出来るが、しかしその限定されたコミュニティであってもそれを実現出来ない個人は、次第に閉じられた社会での自己実現に自分を縛るようになる。
なぜ我々は、「廃人」というのであろうか。一つの意味での自己実現を果たそうとしている個人に対して、なぜ我々は時に攻撃的なまでの態度で罵倒を浴びせたり、その行いを否定しようとするのであろうか。社会に参加しないという行為はなぜ、悪とされるのであろうか。一つとしてあげられるのは、そのような生活をしていれば生きていくことが出来なくなる。という指摘であったり、人様に顔向け出来ないと言うことであったり、まっとうな道ではない。というような否定の仕方を耳にすることがある。
ただ、それは彼の思考にも生まれていたはずである。しかしなぜか、彼や彼女と保護者の間には、かなり大きなギャップがいつの間にか生まれている。片方の思考回路が、片方には理解出来ない構造となっているのである。その背景となるのはどのような事実なのだろうか。悲しむべきことに、世の中に数多く生まれているこの悲劇的な構造、すなわち廃人とよばれるものと、呼ぶものの戦いは、いつも不毛な言い争いや、歩み寄りのない罵倒の連鎖に終わることが多いのである。
しかしよく言われることであるが、それは逆効果である。引きこもりとなった個人、自分の部屋に引きこもって外に出ようとせずに自分の世界で自己実現をする道を選んだ個人は、その人間としての社会生活の循環が、根本的な部分で変わり始めているのであるから、廃人と彼らをよぶものは、自らの思考回路でその選択をした人間を捉えてはいけないのである。
その個人のその選択は、彼の周りの状況と彼自身の要請に基づいた合理的な意志決定を背景としており、高圧的な否定をしたところで納得出来るはずがないのである。そこに至る過程には、多くの理解し得ない個人的な葛藤があり、彼個人は彼個人の尊厳との戦いを得ながら、しかし最終的にその手段によって自己実現を図ることを選択したのであるから、その選択を高圧的に否定することは、その個人の殻を固くすることすらあれ、しかしそれを壊すことはないのである。
私は、よくゲームにはまる。まったくもって家から出ずに三日三晩はまることもあるし、恋愛は悲劇的な結末に終わることが多いので、それほどはまらないがそういったゲームもするし、アダルトコンテンツも見る。外に出て自己実現するよりも、本を読むことで閉鎖的な旅をすることが好きだし、映画や美術そして音楽など、反抗しないものとの会話を楽しむ風潮がある。
別に私はそれでいいと思っている。仕事や学業はしっかりとこなしているが、しかし私は廃人である。社会的な意味、人間的な部分での活動を或る程度シャットアウトして、簡単な自己実現によって自分を満足させている事実は否定のしようがない。自分の弱い部分で勝負しようとせずに、引きこもって自分を保持し、そして弱々しい自己実現をあたかも計りし得ない幸せであるかのごとく自分に知覚させていることは、事実である。
本来的に、戦ったところでそれによって得られる便益は自分が被るであろうリスクに比べればあまりにも低いように私には認知されているし、それなりのチャレンジもしてみるがしかしその見識はまだ変わってはいない。社会的にそのような姿勢が認められないと言うことを本質的に理解していることは分かって頂けると想うが、しかし社会が求めるように自分を立ち回らせる努力は、その結果得られるであろう便益を考慮したとしても、自分にとってはそれほど検討に値する選択肢ではない。
偏見を無くして捉えてみれば、閉鎖的な環境から自己実現を図ると言うことは、それはその自己実現が出来ない人間にとって見れば精神的な幸福をもたらすのである。廃人といわれている我々は、しかしそのあまりに閉鎖的で社会的に認められ得ない行為を通して、幸せを感じている。その幸せは、その幸せよりも遙かに高い次元での幸せを実現している人間から見ればあまりにもちんけなものに見えるが、しかしその幸せは我々には早々簡単に手に入るものではないのである。人は我々は負け犬というが、負け犬が生まれ出でることはこの世界の生来的な特質であって、全ての人間が勝ち馬となれるわけではない。
様々な状況や構造によって、自分の努力や行動ではどうしようもないほど大きな制約条件によって、その勝ち馬となる可能性が相対的に低いのではないかと考えてしまっている個人にとって、その勝ち馬になれという社会からの要求、競争しろという社会構造が個人に生来的に求める要求は、あまりにも辛すぎる。私には、引き込もるということがあまりにもよく理解出来る。この行動は、外側から見れば社会生活を営めない状況であるが、しかし内側から見れば外側によって実現出来ない社会生活を内側によって実現する補完活動なのである。簡単に否定することが出来る行為ではない。
無論、その行為の代償としてあまりにも多くのものを失い、結果としてなんらかの補助無しには生きることが出来なくなる人間になる可能性があるのは理解出来る。であるからこそ、廃人という状況はいまだ社会にとっては憎むべき存在である。しかし個人という観点から見たとき、それはある一つの論理より形成されたものであり、否定すれば直るものでないし、そしてその状況で個人は個人の幸福の最大化を実現している。
必要悪というものがある。それは売春であったり、賭博であったり、ありとあらゆる「闇」といわれるものが含まれる。およそ経済において闇が存在し、社会において闇に染まるものが存在するのであるから、人の精神においても闇に染まるものがいても不自然はない。
廃人という状況は誰の中にもあるが、しかし普段は意識されることはない。なぜならその行為が人にとってプラスであることと認知されているから、廃人という言葉で表現されていないからである。人は誰であれどこかしらの側面において廃人であるが、しかしそれを意識することはない。それは我々にとって必要な機能であり、我々の満たされない欲求を助けるファンクションなのである。
時折、多くの部分がその廃人といわれる行為に支配されている人間がいる。その時初めて、その行為は、廃人の行いと定義される。その行為がもたらすメリットが、社会に貢献をもたらさないメリットであるから、社会的な制裁と強制がそれを行う個人に対して発動するようになる。
そこにしか欲求の実現の場所がない人間にとって、それは迫害である。
我々はより大きな構造の元で、現代社会に生まれたこの特異な現象を見る必要がある。多くの情報と可能性に囲まれ、手段と方法論は提示されるが実際に実現することは難しいこの世の中。努力や個人の力だけではどうしようもないような巨大な力が存在するにもかかわらず、少なからないメディアによって、それらは個人の力で克服出来ると喧伝されているこの世の中である。
実際には多くのものが夢を捨て、現状に納得せざるを得ない構造を持つこの世の中で、精神的な充足を見いだしている矮小な我々は、しかし社会に役に立たないと言うことで迫害されているのである。
私は、廃人だ。
そう、声を大にして言いたいと思う。人間誰しも闇の部分を抱える。しかし自分の中の闇を認めようとはしない。他者の中にある闇を見つけ、その闇が、自分の中に存在する闇であるからこそ、過剰に反応し、そして批判し、強制しようとすることが出来る。
なぜ人が、廃人といわれる状況に陥るのに恐怖するかと言えば、人全てがその状態が内包する感情や状態を恒常的に保持しているからである。己を知る事への恐怖が、他者への攻撃を創り出す。人の存在を認めないことが、自分の中にある大きな不安の存在の否定に大きな助けとなる。しかしそれは、やはり弱さの照らし変えなのである。その感情が生み出した攻撃は、何を生み出すものでもない。ただ単に不安と恐怖をあおり立て、そして自己正当化を助長するだけなのである。
人の内面のどこにもあるであろうひとつの状態、それが生み出す一つの帰結点。社会的な生活を捨て、ある意味社会的な死を迎えた状態、多くの人間が部分的に内包するその状態が、ある個人の大部分を形成するに至った状態にあるとき、その個人は廃人的行為に活動のほとんどを費やすようになってしまう。
しかしその廃人的行為は、だれもが覆い隠している人間の精神活動の現出したものであって、多くの人間にとって、いや全ての人間にとって無関係といえるものではない。我々はそれに無関係であると主張することによって、その存在を覆い隠し、自分の弱さに気付かないふりをしている。しかしそれがもたらすものは、自己にとって言い知れようのない不安であり、他者にとって存在にとっての恐怖である。対抗の出来ない物事に人が面したときに陥る状態とそれは似ている。
しかしその闇は、実は闇ではない。その闇と言われるものに生きるものにとって、それは闇ではない。この世に残された唯一の精神的よりどころであることがある。それがなぜ闇と言われるかは、それがもたらすものに対する理解がまったくないからである。それはベールをはいでみれば、およそそれ以外の手段では実現不可能な満足を提供する手段にすぎないのである。それは否定出来るものではない。
「私は、廃人だ。」
認めることによってその状況はさらに詳細な描写をみせるようになる。自分が廃人であると自覚した瞬間、多くの情報が自分の中に流れ込んでくる。ある種閉鎖的な問題解決方法をとっていた自分を相対的に見つめ直すことにより、初めて人は反発無しにその状況を冷静に把握することが出来るようになる。およそ多くの場合、我々は実現出来ない自らの欲求の実現のために閉鎖的な社会において自己実現を果たしていることに気付くことは出来ない。それは多くの場合無意識に行われており、その閉鎖的空間に自分がいるという事実は、むしろ自分の自己実現のために自分の意識から故意に忘れ去られるのである。
他者から見た廃人が破滅的であり、しかし自己が廃人であるという事実がもたらすものは幸福であるという事実は、その両者の間の大きな認知のギャップを暗示する。なぜ他者から見た自分が廃人であり、自分から見た自分が幸福に包まれているかは、その両者の判断の基準となっている情報の相違である。閉じられた社会によって自己実現を果たす我々は、自分が満たすことの出来なかった社会を自らの意識から拭い去る。なかなか消えないオイルのように染みつくその褐色でどろどろの液体を、それこそ血眼になって自分の身体から拭い去ろうとする。
自分から社会というものが自分につけたありとあらゆる物体や物質を拭い去り、そして無菌状態のような自分は、ほこりもチリもウィルスもない作られた社会で、自らの願望を満たしているのである。自分が自分を満足させることが出来ているのは、自分の周りから自分が満足出来ないもの、支配出来ないものを意識的にであれ、無意識的にであれ排除することによってである。しかし、他者は私がぬぐい落とした多くの現実を、所与のものとして受け入れて生活しているが為に、我々に哀れを感じるのである。
逆に見れば、他者はこの無菌状態によって実現出来る現実世界ではあり得ない種類の満足について知ることはない。大いに閉鎖的でしかし逆に言うと特注された最高の満足を知ることはない。そこにある快楽は、現実世界では到底手に入れることの出来ない破壊的な快楽なのである。無菌状態に自分を追い込むことによって我々は、しかし逆に多くの刺激に敏感になることが出来る。絶対的に見れば微々たるウィルスであっても、しかし我々にとっては破壊的な魔力を持つ恐るべきウィルスであり、快楽である。
だからこそ、周りの人々は理解することが出来ないのだろう。我々の得ている幸福は、無菌状態にあって初めて活動を開始する、社会生活を営むものにとってはそれこそ弱々しい、瞬時に消滅する可能性すらあるウィルスだからである。
はたして、人の幸せとななんであるのだろうか。その個人にとっての幸せを考えてみると、それは絶対的な幸せと比較すればあまりにも矮小なものなのかもしれないが、しかしその個人にとって見ればあまりにも十分なものである。たしかに、他者からの評価というものは人間にとって大きな部分を構成する要素であるが、しかし廃人である我々はそのような外部要因を排除して生きることが出来るが為、意志決定においてはそれほど大きな意味は持っていない。
内向きの快楽に身を染めることは、たしかに社会にとって見れば有害である。その快楽は永遠には続かないと想われているからである。その快楽に没するものが増えれば増えるほど、社会にとっては有害である。社会という構造から乖離したところに於いて個人的願望を実現する主体である廃人は、社会から見れば絶対に認めることが出来るものではない。それらは社会に貢献しないものであり、むしろ社会にとって大きな負担を強いるものである。その物理的存在が所属するコミュニティに、負荷をあたえることはあっても貢献することは全くない。むしろ周りの人間を不幸にすることの方が多い。
しかし、個々の主体ににとってみれば、それは個々人の願望充足の最大化に向けての努力の成果であり、またそれによって現実世界ではとうてい得ることが出来ないような、相対的快楽を得ていることは事実である。自らの論理構造を単純化することによって、シンプルで弱々しい刺激であっても、満足に十分な刺激を得ることを可能としているのである。それはたしかに、閉じられた社会で快楽をむさぼる個人の周囲にいる主体に大きな負のインパクトを与えてはいるのであるが、しかし彼らにとってはむしろ彼らの得られる幸福の中で最大のものを手に入れることが出来ているのである。
社会というフィールドに立って、他者からも認めうる絶対的な快楽を得ることと、それとどのような違いがあるのだろうか。たしかに相対的快楽に没する人は、絶対的快楽を知るものと違って人を引き込もうとはしない。しかし両者の間にある本質的な違いは、個人という視点から見たときにそれほど大きな違いをもたらさない可能性があるのである。どちらの状況に置かれたとしても人間は、同じような幸福を得ることが出来るのではないかと想う。もし、肉体的な存在を保つために必要な金銭と安寧があるのであれば、精神的な充足を得る手段としてのこの選択肢は、もしかしたらあながち否定出来るものではないのかも知れないのである。
もちろん私は、いわば敗者の側であるから、勝者の論理を完璧には理解することは出来ない。私の個人的な、幸せのための生活の半分以上は、ひいき目に見ても敗者のそれであるから、この現実世界における勝者の論理は完全には理解することは出来ない。無菌状態からは想像出来ない環境に置かれて、そして遙かに強い刺激の中で絶対的に見ても大きな満足と表現されるものを得ることが出来ている人間の思考回路は、逆に言えば全く持って分からないのである。
今私は、自分が廃人であるという事実を認めることによって、自分の立場を正当化しようとする戦いを開始している。今私は、自分のスタンスを中立的なものからさらに偏った見方へとシフトさせているのであるから、もちろん廃人と言われる状態によって得られる便益を過大評価して喧伝しようとしているのは疑いようのない事実である。ある論脈を構築して自分の殻をさらに強めようとしていることは全く否定出来ないし、むしろ私は肯定してこの文章を書こうとしている。
出来るだけ公平に書こうとすることに努めようと想えば、多くのふれられていない事実を挙げることが出来るだろう。例えば、閉鎖的な環境で自己実現をする人間は、開かれていると言われる環境で自己実現をしている人間達に熱い羨望のまなざしを送りながらそれを否定しているのである。
自分の中に自分が手に入れることが出来ないものを手に入れているもの達への明らかな嫉妬や熱情を保持しているのを理解しながら、しかしそれを無視して殻を構築することによって自分の幸福を創り出していることは間違いようのない事実である。
閉鎖的な環境で自己実現をする人間は、たしかにその状況に満足し、そしてあながち否定出来ないくらいの欲求の充足を果たしているのではあるが、しかし何時の時も、開かれた社会での成功を夢見てやまないのである。
羨ましくて仕方がない。自分自身が確かに満足していることは事実であるが、しかし心のどこかでは、もし可能性があるのであれば開かれた社会で自己実現をしたいという欲求を抱えながら閉じられた社会で自己実現をする主体は生きているのである。もちろん意識的には、そのようなことを考えることはない。むしろその開かれた社会で自己実現出来る可能性というものを自分から覆い隠すことによって満足を実現しているのが閉じられた社会の人間達の精神構造なのである。
ただ実際に、心の深淵には、いつ爆発するかも知れないあまりにも危険で、あまりにも黒い欲求が渦巻いている。もし可能であれば、自分にももしかしたら、という感覚を常時懐きながら、しかし仮想世界との発想と満足の循環を続ける閉じられた社会の住民は、時に開かれた社会の住民にとって脅威となることがあるのである。
心に深遠に闇を懐きながら、仮想世界において発想と満足の循環を続けるとき、人の精神構造は抜け出れない構造となる。そこに他の主体が存在したときに、それに対して十分な思慮検討を行うことが出来なくなっている場合が多い。逆に多くの場合、それらに対してその個人が熟成してきた闇の欲求が振り向けられることが多々ある。もし可能であれば開かれた社会で実現したい。という思考方法が取られている以上、それは時にストーカーや猟奇的殺人など大いなる破綻を社会にもたらすのである。
それでも廃人を認めることが出来るかと問われたとき、もちろん即答することは出来ない。
廃人という存在は、やはりある種通常ではないプロセスを内包している。いびつな安定がそこには存在しているのである。だからこそ、その内部にいる人間は満足出来るが、しかしそれは社会の全てのものから認められえる存在ではない。たしかに必要悪であるといえないことはないのであるが、しかしそれは必要悪であって出来ることであればないことが望ましい形態である。
個人の満足と言うことのみに視点を絞れば、その内部で充足されている満足の相対的な質はそれほど変わるものではない。むしろ全ての人間がそういった欲望を満たすことが現実世界においては困難であるのであるから、それらの内部において或る程度の欲求の充足を図ることはあながち否定出来るものではないのかも知れない。しかし、その願望の欲求はやはり破綻の可能性を大きくはらんだインバランスな安定状態であり、やはり幸せと呼ぶのにはほど遠い部分も内包している。
メディア、アイドル、ブランド、スタイル、スター。多くの願望を充足するための情報が、多くの発想を生み出すための情報が、あふれかえる世の中となった。人は容易に絶対に自分では手に入れることが出来ないような欲求の実現にふれることが出来るようになり、そしてそれを知ることによってその欲求の実現を発想するようになった。
その欲求の実現はこの不完全な世界では多くの人間は満たすことが出来ないものだった。その欲求は本当に限られたものしか満足させることが出来ない種類の欲求であることが多かったのであるが、しかし際限ない欲求を満たすことは、一つの社会の内部によってはもはや不可能な時代となっていたのである。
現代という社会は、開かれた社会とは全く別の閉じられた社会を創り出すことに成功した。物理的な存在を保たせることには前よりも大きなコストはかからないようになり、そして精神的な充足を果たしてくれる閉じられた社会を提供するメディアやゲームやコミュニティが非常に多く提供される社会となった。閉じられた社会は物理的存在を超えて結びつくようになり、開かれた社会と全く関係のない結びつきによって、数え切れない小さな集団を創り出すことに成功している。
私も廃人である。
人と対立することなく、閉じられた社会で自己実現することで幸福と欲求の充足を果たしているものの一人である。
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「短編」
ではないよな.
本文への感想はまた後ほど.
この題名はもうちょっと色々かけるからそのうち長編書こうかなとおもってるのだよ。本人が廃人だけに書きやすいのかと。。。