その孤独にはいくつかの段階がある。彼や彼女の能力が上がって行くにつれ、その孤独の性質は一般人である我々には理解しにくいものとなっていく。
第1段階は、なじみやすい孤独である。自分が成功したときを想像してみると良い、「すごい!」「すばらしい」「感動した」様々な賞賛の言葉が貴方に投げかけられるだろう。貴方の気持ちを快くする数々の賞賛の言葉が、貴方には投げかけられると想う。
これは多くの人が経験したことのある種類の孤独だが、すごいと言われることが、プレッシャーになる。すばらしいことを期待される自分に耐えられない。というように周りから押し上げられる事に対しての苦悩である。
素晴らしい人間になれるかもしれないと期待される自分に耐えられない。であるとか、プレッシャーになるのはまだ未熟な状態である。まだそれは明らかに有能というわけではなく、偶然であることもある。有名と言うほどは有名ではなく、それはまだ一過性の評価である場合もある。一定期間その評価が持続していることは考えられるが、しかし多くの場合、絶対的な時間はやはりまだ短いものであるはずである。
まだそこでいう、そのプレッシャーに耐えられない被評価者は、まだ自分の才能が評価されることに対して慣れていない。次頑張らなくては、次頑張らなくてはと、ある種の無理を自分に与え、自分に対してストレッチゴールを設定するによって社会からの評価を得ることが出来る才能でしかない。その才能はまだなんらかの努力の成果である場合が多いし、そうでない場合も、その評価を得るのにぎりぎりの能力の裏付けしか存在しないことが多いのである。
しかし、その状態は、しかしまだ有名人特有の孤独ではない。それは認められたい孤独であり、さらに上に上がろうとしている自分に対する孤独である。それは非常に多く見られるし、そして我々にもわかりやすい。この孤独というものは、人間誰しも似たようなその状態を経験しているのである。人と人の間に差異があり、そして「優れている」ということが認められ得る世界である以上、どのような小さなコミュニティにあっても人は評価し、そして評価されるのであるから、なんからの評価基準の下では、どのような人間も評価されることはありえるし、またその評価というものがどのような些細なものでも良いのであれば、人は毎日どのような瞬間にも評価、すなわち判断のプロセスを実践しているのであるから、人は誰しも評価しているのである。
であるから、どんな人物であれ人物が他者から称賛を受けることは絶対にあり得る。しかしそれはその人に幸福をもたらす一方、その人に大きな不安を与える評価であることが多いのである。
その評価はその評価に到達するだけの能力によって成り立っているのであり、またある種の偶然性に助けられた場合も多い。ありえないほどの努力の成果であることも多いし、その結果、高い評価を受けてしまった人間は、次もこの期待に応えることが出来るのか、高いプレッシャーにさらされるのである。そしてそれが大きな不安となる。
それよりもさらに先の所、第二段階に進む種類の人間がいる。次の段階は、かなりの能力が認められており、それを恒常的に発揮している。もしくは人々からなんらかの信仰を受けており、恒常的に行為や行動が賞賛の対象となっている個人に特有の、一般人である我々にはすこし共感しにくいタイプの孤独である。
もちろん、賞賛の言葉はあなたに幸福を与えてくれると想うのだが、しかし想像して欲しいのは、それが恒常的な状態となったときである。何時、何をしても、すごい、すばらしい、感動した。と言われると、逆にそれはその人にとって苦痛になる。多くのテレビドラマや漫画で描写されているこの事実は、やはり現実世界でも観測することが出来る。
それはどのようなタイプの人物でも良い。時にはその人の能力や実体と関係なく、その人というイメージがその人の周りの人、もしくはその人を知る人のなかに出来てしまっている人である。芸能人であればタバコを吸うのを許されなかったりするし、知識人であれば直接的にアホな発言を、直接的に馬鹿な発言をすることは許されなかったりする。もはや賞賛の中に含まれているのは、その個人の存在を超えた何かである。その人という存在がその人個人とは関係なく動き出しているのである。周りの人間はこの人はこういう人だとその人を定義付ける。その人の能力や才能、時には容姿が、他者よりも際だっているのは疑問の余地のないものとして認められており「綺麗だね」であるとか「すごい」であるというせりふはそれ自体あまり意味を持たない。その賞賛の言葉を発する人間はその言葉を既に無意識から発しており、そしてまたそれを投げかけられる側もそれに対して麻痺している。
例えば、どの学校にもいつもいるアイドルや秀才を考えてみよう。(どの学校にもいつもいると言ったのは、およそ容姿や能力の評価は相対的なものであり、どのような集団にも際だつものが存在し、際だったものはその評価基準において恒常的にトップに位置することが多いからである。情報の不完全性が、多くのある意味独立した集団内においてアイコンとなりえる個人や集団を選抜する。それはおよそ全ての集団内において認められ得る真実であるからである。)彼らはいつのときもアイドルであることが求められる。あの子はかわいい・かっこいい、すなわち容姿が優れているという事実は恒常的なものであり、閉鎖的集団内においてはそれは安定している。時に漫画やドラマのように、さらにかわいい・かっこいい転校生が登場してその安定は崩れるのだが、しかしそのようなイレギュラーな事件がなければその状態は数年来において安定的である。
アイドルは、自分の知らないところで自分に関する話題が大量に発生していることを知ることはないが、しかしそのアイドルのいないところでの情報交換が、そのアイドルのイメージとあるべき姿を創り出していく。その情報はあまりにも不完全であることが多いが、しかしある小集団内部で、アイドルのイメージとしてその不完全な情報は採用されてしまう。それはにわかには信じられない伝説であったりもするが、しかしその場の雰囲気がそれを否定出来ない雰囲気であることが多い。
アイドルは、非常におしとやかであることが求められる。周囲の期待が、その個人の個性とは関係なく増長するときがある。そのアイドルはいつも優しくあることが求められる。時には完璧であることが求められる。綺麗なのだからスターのように振る舞うべきと言われることもあるし、綺麗なのだから心も綺麗にといわれることもあるし、綺麗なのだから他者の心を自由にしても良いのだと言われることもある。様々な考えが、勝手にその人のイメージを創り出していく。様々な考えがその人のアイデンティティを、その人の個性や実体と関係なく創り出していく。逆にその創り出されたイメージが、その人の生態と行動を創り出していくのも事実ではあるが、しかし殊アイドルのような人々の場合、周囲の創るイメージの方が、はるかに大きく、その人の発するイメージとは関係なく、増殖していくのである。
例えば非常に力のある不良についてほかの不良が輪を囲って話しているシーンを思い浮かべてみればいい。多少なりとも誇張された情報がある個人からその集団内に伝えられる。「あの人はあんなに強そうな他校の生徒を秒殺したんだ。」というような言葉が伝えられると、実際は秒殺といっても4分くらいの時間がかかっていたとしても、それ以上のイメージが集団内の他の人間に伝えられていく。すると、その人の実体はたしかに優秀であるが、それ以上のイメージが他の人間の中に創り出されていくこととなる。
たしかに頭が良いことは事実であり、魅力的であることは事実であるが、その個人の介さない情報交換、肯定的であるが不完全な情報交換、多くの場合多少なりの表現の誇張を含んだ情報交換が多数発生することにより、その個人のイメージは実体から乖離していくこととなる。自分の知らないところで自分に関する情報交換が行われ、そしてそれが他者の中の自分像を創り出していくことが多々あるのである。
会ったことのない様な人間にすら、すでに自分のイメージが伝わっている。すでに自分という存在は、自分が自分像をその人間に伝える前から出来上がっていることすらある。話したこともないにも関わらず、多くの人間は自分に接するときに既にこの人はこういう人間であるという非常に強い先入観を持って接してくる。それはすでに知っている人間でも良い。その知っている人間も自分以外の情報ソースから得た自分像に大きく依存してしまっていることがあるのである。
そして、まわりが、大きな期待を持って接するようになる。自分以外の情報ソースによって増長されたイメージをもとに自分に接するようになる。自分がそのイメージとは違う行動を取ると、眉をしかめることすらある。自分以外の人が、自分の理想像を作り上げ、そしてそれに無意識のうちに縛られざるを得なくなる。
その結果、アイドル、もしくは秀才や天才などは、その人はこうあるべきだというイメージの中でもがき苦しむことになる。そのイメージがその人を駆り立てることが多く見られる。周りの期待する自分の姿に合わせて生きていく必要があるからである。それはさらに進んだ苦悩である。まわりの作った姿にあわせるために自分の能力を合わせる苦悩から、周りが自分の能力とは関係なく作り上げた幻想にかどわかされる苦悩となる。
自分が作り出したものではない自分像という奇妙な自分と共存せざるを得なくなる。他者は、多くの場合自分自身が作り出したものではなく、自分以外の場所で自分以外の人間が作り出した自分像を見て、自分を評価し、そしてそれを基準にして自分に接する。
自分の実際と時としてまったく関係のない自分と、自分以外の他者がコミュニケーションしている。他者が自分と話すときは、自分ではない自分と会話しているように感じるようになる。それに縛られることもあるし、それを縛り付けようとあがくこともある。
それはなかなか経験しづらく、理解は出来るが共感はしにくくなる孤独である。
そして、それがもうすこし高まっていくと、次の段階に進む人たちがいる。次の段階はさらに能力が高いと認知されている人たちの抱える悩みである。
それまでは同列の中での差異であった。すなわちまだその能力差は他者の許容するものであり、他者はその人の能力を高く認めてはいるが、しかしそれは認めうる違い、他者にとって称賛に値するものではあるがしかしまだ理解の出来る能力差だったのである。自分より可愛いけど、芸能人とかにはまだこの子より可愛い子はいる。ということであったり、自分よりかなり出来るけど、まぁ俺と比較したらだよね。都内にはもっと優秀なやつたくさんいるよ。というような、ある種限定された能力の肯定だったのである。
まだ他者は他者自身に対する尊敬を保ったまま、自分に接する。他者はたしかに自分より自分のことを認めているのであるが、しかし自信を持って自分と接してくれる。しかし、それはさらに次の段階に進む。その能力が、もはや想像も出来ないほど優れていると認知されたとき、絶対にかなわないと認知されたとき、次第にそれは対話を阻害し始める。能力の高いと認知されている人たちは、なかなかそのほかの人と会話出来出来なくなる。
その源泉となるのは、実際に周りの人々の能力が不足しているかは別問題として、評価する側が著しく自分たちの能力の不足を感じる事実である。そしてそれが信仰に似た感情を抱かせることにつながる。この人の言うことなら問題ない。この人の言うことであればどのようなことであっても聞く価値があると捉えられてしまう。
会話をするときに、妙に気を遣っていることが分かる。自分が何を言っても否定してくれないことがある。正当な評価がされていないことが分かる。対話が出来なくなってくる。何かを話すときに、自分が伝える作業は非常に上手くいくが、しかし他人から受け取る作業がし難くなる。人と会うときに逆に気を遣う必要が出てくる。相手が気を遣わないように最大限の努力を払わないと、相手が自分に心を開いてくれなくなる。相手の中に自分に対する信仰に近いものが見える。彼や彼女は自分の本当に考えていることも話さなくなる。わざと極論を言ったとしてもそれに対して反論してくれなくなることすらある。
ここから、次第と会話する人間が制限され始めていく。自分と一緒にいることによって輝く人間、言い方を変えると腰巾着だが、もしくは自分と同様の志や能力を持つもの、さらには自分より能力の高いものである場合も多いだろう。そうでないと会話が出来ないのである。不必要に自分を卑下するまわりとのギャップが生まれ、逆にそういう人たちとの会話に疲れ始める。いちいち気を遣わなくてはならないことが会話のチャンスをさらに少なくしていくのである。そして限られた個人達との対話に身をゆだねる必要が出てくる。
自分で自由に会話する相手を選べなくなってくる。この段階に達すると自分が接することの出来る人間の多くは自分を知っていることが多い。そしてなんらかのバリアをつくって自分に接してしまう。そのバリアがない相手は非常に限られる。バリアがないとしても自分に挑戦しようとしたり、または自分を利用しようとする人間があまりにも多くなる。自然と自分の行動がどこに行っても制約されるようになる。たしかに自分のことを誰もが知っていることは快感だが、しかし多くの人はそれが恒常的に続いていくとそれに対する感覚が麻痺していく。
実はあまりにも辛い状況でもある。逆に自分の周りの人々が自分を規定し、そしてこの段階から自分という価値のまわりにたくさん自分の周りに存在するようになる。周りの人々から自分像を規定され、自分という存在がいないとある意味損を被る個人達に自分の言動や行動を修正され始める。それはもはや納得するしかない事実ではある。この部分は非常にわかりやすい。テレビやドラマでも有名人の苦悩として放送されるし、なぜなら自分たちはその尊敬をする側でもあるからである。
多分あれらのストーリーは、一般人が手に届かないような天才でも実は苦悩に満ちているのだということを指摘することによって、たぶん一般の人々にある種の安心を与えているのだと想うのだが、しかし実際の所は、もうひとつ、もう少し違う感覚が、有名な人間を支配していることが多い。
この段階ではもう一つの孤独が彼らを襲うのである。その能力が他の人間と著しく異なったとき、次第に言語が異なってくるのである。その差異があまりにも際だってくるために、一般の他の人間と会話が出来なくなってくるのである。特に自分が自信を持つ話題においてはそれは顕著である。例えば、ガンダムについて他の人間よりも遙かに優秀な人間は、他の人間が「ガンダムってRX-78なんですよね」と言ったとしても、彼の頭の中には膨大な情報が流れ込み、「はい」「いいえ」ではなく、もっと厳密で知識に満ちた深遠な回答を欲してしまうだろう。他の人が期待する答えよりも遙かに多い情報量を提供出来るために、他の人の質問や提案があまりに陳腐なものに見えて仕方がなくなってくるのである。他の人の質問や発想について幻滅することもある。その膨大な知識量や実力をもってすれば、他者との会話が成り立たなくなることは容易なのである。
発想する際に発想の原点が全く違うようになる場合もあるし、また発想のレベルが遙かに高くなる場合もある。いずれにせよそのような状況になると、自分たちの知識を深めたり、会話することが困難になってくる。すでに会話の前提となる知識や経験までも著しく一般の人間ととこなってきてしまうが為に、今度は自分の側からも孤独を感じるようになる。
会話がかみ合わなくなってきてしまうのである。小学生に宇宙はどうやってできたの?と聞かれた宇宙物理学者は、自分の説明能力を非常に抑えてその子に接しなくてはならない。それが一時的なものであったり子供であればいいのだが、しかしそれが周りの人間のほとんどになってくると、あまりにも大きな孤独が彼を支配するようになるのである。
この二つの理由から、非常に孤独な人たちは、同じレベルで会話が出来る人たちを捜し始める。周りから異なりすぎてしまって、あまりにも孤独であるから、自分と話の合う人間、会話の出来る人間とよせ集まり、そして自分たちの欲求を満足させようとする。変に自分を卑下したりしない、台頭に会話が出来るコミュニティで、自己実現を果たそうと尽力し始めるのである。それは第2段階から始まっていることであるが、第三段階になると、差異を他者から感じられた人間たちは、その人間たちで寄せ集まる必要性に脅迫的に迫られるようになる。
エリートといわれる人々は、自分の方からそのほかの人たちを遠ざける。そのような人たちに煩くされることをさけるために、煩くない人たち同士で集まるようになる。排他的なコミュニティを作ることで、自分たちの保身と並んで、自分たちの孤独を紛らわせているのである。集まり、societyを作ることは、ある特殊な集団が、特殊であるということの孤独を慰めるためのものでもある。
それはどのような差異であってもかまわない。エリートが群れるという行為は、ネット上でオタクと言われる人たちがコミュニケーションを図るのと実質変わらない。どちらもプライドがあるし、ほかの人たちと自分たちは違うと想っている。
それはある種の寂しさの表れである。「能力が他者と違う。」という事実は別に能力が低くても、もしくは非常に特殊な能力でも同じような状況を創り出す。有名人や、もしくは能力が高い人は、社会がその有名人にもたらす数々のメリットで、あたかも孤独ではないように想われるが、しかし彼らもほかの、虐げられる特殊な人たちと同様に、孤独なのである。
異質であるということ、それがもたらす孤独は、その人の社会的地位に関係なく、その人に襲いかかる。そして、虐げられる人々の孤独よりも直接的に、有名人は孤独になるのである。周りの人々から違うと認知されることは、他方でその人を幸福にすることもあるが、しかし同時に不幸にすることもある。同質化へのベクトルと、異質化へのベクトルはそこに同時に存在している。その結果、或る程度閉鎖的なコミュニティを創り出し、そしてそのコミュニティに自身を満ち、排他的になる。それは有名人であろうとオタクであろうと変わらない。
これほどまでの差異になってくると、周りも引き始め、そして周りに異質と認められてしまった有名人達は、同質的な人間達、もしくは集団とよせ集まるようになってくる。まわりとのコミュニケーションが次第に完全には成り立たなくなってくるので、自分の欲求を満足させることが出来る集団と集まるようになり、そして会話出来るように、自分の欲求を満たせるようにするのである。
第1段階では周りの欲求に答えられるかの不安、つまり同質の中の優秀であったが、第二段階で周りの欲求の充足が恒常的であることから生じる実体とイメージの乖離につまり同質の際に至り、そして第三段階では異質と捉えられ別物として捉えられるようになってしまう。そしてこれらの事実が、両者の間にまた深い谷を創り出す。
孤独な人たちによって創り出されたコミュニティは、そのコミュニティ自体が異質なものとして定義されるようになる。エリート社会であるとか、マニアのサークルであるとか、芸能界であるとか、業界、であるとか、異質な、ある種の能力によって恒常的に異なっていると想われている集団は、さらにその集団自体が尊敬であるとか、畏怖の対象となる。次第にそれ自体も溝を助長する対象となるのである。それによって、そのコミュニティに所属する人間は、さらにその他の人間とのコミュニケーションが難しくなっていく。異質といわれたもの達の集団は、はやり異質と捉えられるのである。
それが尊敬や憧れの対象となる場合もあるし、しかし逆に差別と虐待の対象となることもあるが、しかしどちらの場合も、同様の孤独を抱えているのである。
しかし、その集団化による同質化への欲求の充足も長くは続かない。その集団は、異質と捉えられた集団は、同質的な人間が集まった集団であるはずであるが、しかしその集団内部でまた同様のプロセスが繰り返される。その組織内部においても、差異によって孤独が生まれていく。孤独によってさらに上の集団が作られていく。第1段階、第二段階、そして第三段階と、そのプロセスは時には何度も繰り返されていく。
離れては結びつき、結びついては離れ、それは連鎖反応となって見えないがしかし着実に、どのような集団であっても差異であっても繰り返される。
プロセスが繰り返される。集団の中から集団の中心と外れた人間が弾き出されて行く。それは無能である場合もあるが、しかし有用である場合もある。ある集団の中から一定の優秀な人間が別のコミュニティを作り出し、そしてその一定の集団の中からもある一定の集団が選び出されていく。そしてその選び出された集団の中からもまた選ばれていく。逆に、たとえば士農工商穢多非人の穢多や非人の中にもかなりの階層が存在する。その中でもグループが作られ、同質的ではない人間たちが別の集団を作っては作っていく。
しかし、次第に同質的な人間が少なくなっていく。ある種の選別の過程であるから、同質的な人間は次第に少なくなっていく。天才の孤独とよく言われるが、次第に誰とも会話が出来なくなっていくことがある。同質的な人間がいない場合、もしくは自分が同質的な人間を発見出来ない場合、それはありえないほどの孤独となる。
同質化と異質化のプロセスの帰結点がそこにある。それは素晴らしい特殊な能力、社会に認められうる文筆家の能力や科学者でもいい。かれらはもはや完璧に同質的な人間などほとんどいない。同質的な集団を作り出すことができない。
別にそれは、田舎の学校でぐれる不良でもいい。彼と同じ考え方をする人間はいない。同質的な人間がいないという事実が、非常に大きな孤独となって彼や彼女を襲う。時としてそれは精神の乱れにつながるし、反社会的な行為ともなる。
そして同質的とはいえ相当のトップレベルになってくると、そこに集まる人間の能力や言語は非常に個性的で他に類を見ない人間ばかりであることが多く、本質的には理解し合えないコミュニティに次第になっていく。そのコミュニティの個性が、いわゆる能力が高まれば高まるほど、その集団の同質性は低下していく。たしかに一人でいるよりはそのコミュニティで会話をした方が幸せではあるのであるが、しかしそれはやはり何らかの孤独を抱えた集まりとなってしまうのである。
その集団が社会から肯定されうる能力を持つ集団の場合、世間から素晴らしいほどの賞賛を得る集まりとなる。誰もが無批判にそのコミュニティのメンバーであることによってその人を評価する。その人と関係ないその人の評判と、そしてその人の能力と直接は関係ない集団の評判で、別に被評価者はなんのコミュニケーションを図らずとも、初対面の人間から無批判に肯定される。しかしそれは今まで述べてきたように、裏を返せば孤独を助長するのである。否定的な差別と、肯定的な差別は、違うようでいて実は同じプロセスで構成されている。いつもは肯定的な差別がもたらす便益がその孤独を覆い隠しているが、しかし被差別者がもつ漆黒の闇は、有名人も共有するものなのである。
有名人の孤独、その闇は深い。
その能力の差異は際だっており、それが際立てば、際立つほど、孤独は果てしなく深くなっていく。だからこそ、閉鎖的な集団でその孤独を分かち合おうとするのである。
差異を持つものは、みな同質的でないことからなんらかの便益や差別を受ける。たとえうけるものが便益であっても、その裏には同様に孤独がある。いつもは便益に覆い隠されているが、しかし差異があるという事実は、差別を受けているものたちの集団と同様に、尊敬される集団に対しても同様の反応を示させる。精神異常者の病的心理は、天才のそれを大変似通ってるという。集団や個人に対するそれ以外の個人のもつ印象やイメージも同様である。天才に対しても非人に対しても、同様のプロセスで孤独を与える。
孤独を与えられた者たちは、孤独を与えられたものたちで集団を構築し、そしてその孤独を満たす。異質化の洗礼を受けたもの同士で、同質化を実現する。一時的にではあるが、プロトコルの共有できる、ある意味同等の人間たちの集まる集団を作り上げる。しかしその同質化の先に、また同様のプロセスが繰り返される。どのような集団であっても、差異化が発生する。そしてまた、孤独なものが生まれる。このプロセスが繰り返されれば繰り返されるほど、その集団内部に凝集される孤独は増していく。それは時として肯定的に捉えられることもあるが、しかし反面で孤独なのである。
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異質であるが故の孤独は、プロセス上一時的にしか消えることの無い非常に深いものであるという見解が見受けられます。でも、どうにかしてその永続的孤独を解決することはできないのでしょうか?大きな差異があるもの同士が密接な関係を築くことは本当に不可能でしょうか?
たとえば、どんなに異なる能力や専門性がある人間同士でも、メシは食うし生活はするし、生命体であるというベースの部分では何ら異なることはないと思います。第一に興味ある内容でなくても、人間はそれなりに楽しく会話したり、コミュニケーションを取ったりできる生き物のような気もします。
僕の今のところの研究と人生のテーマは、そんな「異質性を保ったまま孤独ではない生き方・方法を見つけ、創り、実践すること」だったので、長々語ってみました。うざかったらごめんちゃい((((((^_^;)
マジレスかよっ!←自分ツッコミで。
この記事は話を単純化するために、ある高い凝集性を持つ集団の背後に生まれる排他的な側面についてだけ着目して書いています。
どのような高名な集団であっても、評価の高い集団であっても、差異が原因である種の孤独を感じる人種が存在することに着目しています。
その孤独な個人は、他面でその能力の差異から社会的な賞賛を受けるのですが、しかし同質性を望む人間の生来的な欲求から強いストレスを受けるという事実に着目しているのです。
高い能力の集団は、その集団自体が称賛を受けます。凝集性の非常に高い集団です。その中の集団は集団に対して高いロイヤリティを持っていますし、その中のメンバーを尊敬し合っています。
他と違う人間達の集まりであるからこそ、その中のメンバーである自分たちに誇りと自信を持ち、そして自分たちの所属するコミュニティに所属することに喜びを感じると想うのです。
しかし、私の記事が着目しているのは、そのような集団であっても、そこから外れ得る人間があり、そしてその外れてしまった人間は、その集団のもたらす強い便益の反動として、高い孤独を感じるという事実です。
そしてそれに付随して、その能力の差異が際だつ人間の集団であればあるほど、その集団で得られるものや体験はある個人にとって素晴らしい便益をもたらしますが、しかし同質的でありたいという欲求を満たすことは出来なくなるということが、孤独につながるということが主なポイントです。
AZZIEさんに指摘していただいたように、大きな差異があるもの同士であっても密接な関係を築くことは不可能ではないと想います。
AZZIEさんの言われるように、或る面で異質であっても、他面で同質である。というように異質、同質にも様々な評価軸があるので、一概に「異質である。」「同質である」とは言えませんし、またそうであるから大きな差異がある一面である人間同士でも、他面の同質性で一つのコミュニティに存在し得ると想います。
私の文章では、前提条件として、或る集団内での評価軸が一面的なものに縛られているという前提条件があります。すなわちその集団内部に存在する人間が他者を評価するとき、かなり限定された評価軸を元に人間を評価しているという前提条件です。
たとえば、学校であれば容姿であり、マニアのコミュニティであれば例えばガンダムの知識であり、エリート組織であれば地位と名誉です。
一面的な評価軸を基準としているから、孤独が生まれるのかも知れません。もしその前提条件が崩れれば、すなわち集団の構成員の大多数が多面的な評価軸をもてるようになれば、AZZIEさんの問いは私の論脈からは可能となります。
AZZIEさんのいわれるような生き方、方法を実践するための答えは、私の文章の論脈から行くと、多様な評価軸を元に他者を評価すること。となるのかもしれません。
集団の構成員が、ひとつの評価軸に縛られずに他者を評価出来るようになれば、他面で異質であっても、他面で同質的であり、孤独を感じることはないでしょう。
ただ、哀しいことに、私たちの多くは一面的な評価軸で自分たちを縛りがちです。それを背景として、なかなかここでのべたような孤独は消えないかも知れません。ただ、世の中は多様な価値観を認める方向に変わってきてますし、大きな差異があ留もの同士が、お互いの同質性を評価しあい、密接な関係を気づけるような時代に近づいているように思えます。
答えになりましたでしょうか?
私なりの意見を述べさせて頂きました。AZZIEさんの意見もいただければ幸いです。
私も異質性を保ったまま孤独ではない生き方を誰もが出来るような社会が来ることを切に祈っています。コメント有り難うございました。議論が深まり本当に助かります。これからもマジレスよろしくお願いしますね。(笑)
でも、そういうコミュニティに一度は身を置かないと書けないArticleなわけですよね、このエントリーって。僕はそんな有能な集団に属したことが無いのだなぁと改めて思い知りました(爆)僕はCottonさんの、Myマジレスへのマジレスを今読んでちょっと感動したタチですがw、本当にその「多様な評価軸」の重要性は常に感じてます。たとえば今日出会ったメンバーの全員のいいところをそれぞれ言える?(2つずつくらいならいけるかも)っていう力?をもっと伸ばしていきたい僕は。
個々の多様化・多様性と、それが斥力でなく重力(引き合う力)で結ばれる関係性。
これがこれから目指すべき世界のVectorになることは間違いないと僕は信じてる。僕の属するすべてのコミュニティを、きっとそうしてみせる。(あーあ、かっこいいこと言っちゃったw自分のBLOGでやれよなぁ(爆))
そんな感じで。コットンさん、これからもどうぞよろしくです(≧ω≦)b
まだこういう問題は私もよく分かっていませんが、雑感という事で書いてみました。いや、長ったらしい文章をきちんと呼んでもらって感謝感激です。m(_ _)m
コメントありがとうございました。自分自身5年前に書いた記事を見直す良い機会になりました。しばらくブランクがあったので最近はこういう長い記事がかけなくなってしまっているのが大変残念です。
やはりこういう文章は日々の生活とか将来を気にしなくてよい状況にまたならないとかけないのかもしれません。
今後ともよろしくお願いします。