2004年02月14日

人種のるつぼ・運転免許試験場

免許の更新に来た。しかしこの異質な空間は何時見ても異様だ。 何が異様かというと、そこが人種のるつぼとかしているからである。サラリーマンもホストも学生も、主婦もおじいさんも、ありとあらゆる社会的人間がほぼもっている運転免許。もってないことが珍しいようなこの運転免許を更新するには、必ず警察署なり試験場なりに本人が出向かなくてはならない。

 もちろん、田園調布警察署なり、成城警察署なりでの更新はそういった人種だらけだが、しかし試験場という空間が異質なのは、そこに座る人間達が相対的に、あまりに異質であるからである。
 試験場に来ると言うことは運転免許を取得してから五年未満か、違反したことがあるかのどちらかなので、自分で運転しない人はさすがに来ないが、しかし駐車違反くらいは誰でもあるだろう。
 この空間には、ただ「よく運転している人。」というくくりだけで掬い上げられた多種多様な人間達が集うのである。

 よくよく考えてみて、びっちりとブランドものらしきスーツに身を固めたサラリーマンと、茶パツやらアクセサリーやらで格好も想像通りの若者が隣の席に座っておなじ講習を受けるというのは、あまりにも面白い事実である。
 競馬場や競艇場をねぐらに日々を愉快に暮らしている独身中年貴族の皆様と、必死に真面目に勉強してT大学やらなんやらに進んで、官僚や医者を目指そうとする若者が同席しているのも、実はあまりに珍しいことであるように想う。
 お互いまったく会話がないため、それは人種のるつぼというかサラダボールなのかもしれないが、しかしこの空間には、スポーツ新聞で時間をつぶす人と、ビジネス書で時間をつぶす人と、携帯で時間をつぶす人と、多分競馬かなんかのラジオ中継で時間をつぶす人と、ノートパソコンを開いてblog記事に時間をつぶす人が共存している。

 ほかのこのような空間はないかどうか考えてみる。例えば電車だろうか?いやしかし、電車はやはり生活のリズムというものがあるためにかなり束縛を受ける。通勤ラッシュの時間帯はサラリーマンだらけだし、午後は学生だらけと、やはり色が付いてしまっている。
 競馬場に行く沿線と、学校が以上に多い沿線ではやはり傾向がはっきり分かるし、むしろ電車にほとんど乗らない人もたくさんいる。
 やはり、運転免許試験場という空間は特殊だ。誰もが絶対にこなくてはならない。そしてその時間帯が縛られる。長い場合には弐時間も同じ教室内に人間が拘束され、同じ授業を座って受ける。まさに人間観察するにはもってこいの場所といえよう。


 前にある人と豪勢なフランス料理の食事をしたときに、その人は言った。別にお金持ちはお金持ちで集まろうとしているのではなくて、お金持ちがお金持ちの生活をしているだけでお金持ちで集まるようになるのだと。
 つまり、たしかにお金持ち同士で集まろうというコミュニティも存在するが、しかしもっとも大きいのはその行動先がいつも限定されるからだろうと言うことである。
 飛行機はファーストクラスしかのらないし、新幹線はグリーンしか乗らないし、ホテルは一流しかとまらないし、パーティはもちろん社会的ステータスの高い人間が集まれる場所にしか行かない。ブランドものを買うにしても、外商が出入りし、そして年間1000万円以上買う人たち限定の品評会などに招待されるわけであるから、そこで合う人たちはやはり顔見知りばかりだろう。
 もちろんフランス料理やらのレストランも、それなり以上の所しか行かないと言う人は案外多いし、べつにそこしかいかないということはないだろうが、しかし馴染みとなることは容易に想像出来る。

 逆に、俗に言うファッショナブル(死語)な若者たちの集う街では、やはりはやりのクラブなりライブハウスが社交場となるだろう。そこにいってそこでのコミュニティに参加することで、それ以外の人間とは差別化された人生を送ることが出来るのである。
 サークルなどのように、人為的に集う空間を限定して凝集した集団を創り出す場合もあり得るが、しかしほとんどの場合は、自然発生的にその場所がもたらす空気によって集団が熟成される。
 別にそこにコミュニケーションが無くても良い。たとえば秋葉原に行けば秋葉原という街と会話することが出来るだろうし、銀座でも青山でも代官山でも麻布十番でも、その街に行く、その街の馴染みとなるという行為自体が、そこに良くいく集団との同質性を高めるのである。
 空間が人に与える影響は大きい。人が多くの時間を過ごす空間は何時も限られる。それらは社会的な差異から生まれるが、しかし逆にそれを大きく加速もさせる。

 そして何時しか、人の集団は分化していく。次第にまったく遭遇しないタイプの人種が生まれてくる。その集団とはプロトコルが相互に通用しないために、会話をすることが出来なくなる。
 それはもっとも端的な例は言語の分化である。フランス語とイタリア語は違う。それは非常に端的に言えば、物理的、法域的な別離によって、ほとんど遭遇、同じ空間を共有する機会がなくなったからである。

 別に意識せずとも集団というものが出来上がる。しかし、時折それらの集団を切り裂いて存在する「場所」がある。老若男女貴賤貧富を問わず、2時間という時間を共有することがある。まったく違う集団に時系列的に、もしくは趣向別に分かれてしまった「そのほかの人たち」と時間を共有することが出来る空間。日本に住んでいる免許更新者と言うだけの共通点で集まったスイス人オランダ人フリーター会社経営者学生おじいさんの集団。それが運転免許試験場には確かに存在していた。

 皮肉なことにそのような場所でした共時性をえることができないこの社会。出会い系サイトなるものが存在するがそれは下半身のものとなっているし、経営者コミュニティやサークルも大きく地域性に依存している。人は自分と共通のバックグラウンドや経験、考え方を持つものを、コミュニティとして好む傾向があるが、しかしそれは結果として自己のまわりを硬直させる。
 普通に生きていれば、出会いは次第に偏っていく。だからこそ旅路の出会いは新鮮なのかも知れないが、しかしそれらの例外を除けば、たとえば勤続30年の総務の人は、ほぼ単一の会社の人間と、社交クラブや趣味のクラブのコミュニティにしか参加しない。


 むかしホームレスの人たちと一夜を共にしたことがあったが、そのバックグラウンドは本当に様々であった。その切り分け方は、ホームレスという生き方を選んだ。ということが多かったが、しかし多様な業界と人生があるのだなぁと、非常に感心し、尊敬しながら話を聞いたものである。
 我々はいつしか異質というものを避けている。気づかないふりをしているが、しかし自分は自分にとって心地よい人間達やコミュニティをチョイスしてそのなかで自分というものを慰めていく傾向がある。それは非常に自然なことではあるが、しかし多くの場合そのバランスは崩れがちである。
 それは一方で凝集性を高めるが、しかし一方で自分の視野と経験と考え方を大きく狭めることにつながっている。或る一方的な考え方を共有出来るものが集団として成り立ちやすいとするならば、我々はかなりの程度偏った集団内部に拘束されることによって、その非常に偏った見方である自分というものの社会的認知を、その集団内で得ることが出来るのである。
 ガンダムマニアはガンダムマニアの集団内ではその非常に独特な考え方が支持されむしろ賞賛される。貧乏な我々はウルトラリッチな人たちの生活を知らないから、自分たちの生活に満足することが出来る。仕事しか頭にない人たちは、仕事以外の自己実現で幸せを体現している多くの人の価値を分からなくなりがちであり、ホームレスのすばらしさを理解するのは、他者には難しい。

 しかしその中で、この運転免許試験場という場でくくられた集団は、面白い。切り分けられてしまった集団が、少ない時間ではあるが確かにすれ違っている。混沌の中に投げ込まれたような感覚がある。わずかな時間、ゼロに近い会話、しかしそのなかで、たしかに分かれてしまった、私の体験出来なかった、出来ないであろう可能性が、私のすぐそばに座るのである。
 別にその集団は何を生み出す集団でもない。多くの人間は自分と会話出来る人間が全くいないことが多いこの集団でのタスクをすらりと時間の無駄に等しいと考え記憶の彼方に消していってしまう。

 しかしよくよく考えてみると、この無駄な時間は、全く違う人々が寄せ集まる集団、そこに参加する機会でもあるのである。
 この異質な、しかし特別な空間を、楽しんでみてはいかがだろうか。


posted by Cotton at 09:12 | Comment(0) | TrackBack(1) | 随想(essay) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Excerpt:  有名であるということは、孤独である。有名な人々というのは、実はあまりにも孤独でもある。様々な権利と名声と引き替えに、失うものも多いのである。意識していないかも知れないが、やはり失っているものも多い。..
Weblog: cotton_articles_v2
Tracked: 2004-02-15 22:37
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