三月の終わりまでヨーロッパ勤務が延長され、遂に丸二年「モバイル」な生活を続けることが確定した。「モバイル」というのは飛び回ることもさておき、家に帰らないという生活でもある。
おとといだかのFTにそんな生活をする人が増えているという結構大きな記事が合ったので、 振り返って計算をした見たのだが、ざっくり足すと、二年間で約170日しか家にいなかったことになる。逆に言うと560日はホテルで生活をしていたということだ(!)そりゃVIP待遇もうけるわ。。
だんだん旅行用具も進化してきて、やはり小分けにして小さなパックにいれたほうがいいとか、土曜日の洗濯のために洗濯用品は不可欠とか、旅行ガイドに書いてあることそのままなんだが、いつのまにか実践するようになっている。 多分異常と感じるかもしれないが、なんと自分はキャンプ用の調理用具まで持ち込んでいたりする。(無性に恋しくなったときに米を炊いたりラーメンを食べる。。。)
先日やっとアパートを東京に契約したのでそれが家だといえるが、まだすんでいないので家という実感はまだ無い。そもそも自分はほとんどの持ち物を処分してしまっているので、家に帰っても殺風景にベットとテーブルが置いてあるだけ。自分の家というかんじはまだしない。
家が無いという気分はこういう感じなのだと思う。いったい何が家を定義するのだろうか。いったい何が家が無いという気持ちをもたらすのだろうか。そもそも家とはなんなのだろうか。
ジプシーは家財用具はすべて身に付けている。家族も一緒に移動する。友人とはどこかしらず会う。全てが場所にひもづけられていない。自分と一緒に移動する幌馬車の空間が彼らの家だ。
自分も家財用具は全て身に付けている。今東京の家のものが全てなくなってもそんなには困らない。一番気に入っているものはいつも持ち歩いているからだ。自分に一番ひもづいているものは自分とともにある。
家族との連絡もskypeでまったく困らない。パソコンの中に写る奥さんが家族で、彼女も自分とともに移動する。
大好きな友人達もそうだ。話してていて楽しい友人達はたまに連絡をくれることももある。スノーボードをしながら会話したり、アウシュビッツ博物館を歩きながら話すこともあるし中東のホテルで彼らと彼らのビジネスについて議論したりもする。もちろん実際には会えないが、彼らとのコミュニケーションは完結していて、それらは自分の中では場所の制約を受けていない。
家という概念が、ある特定の場所にひもづかない生活をこう長く続けてくると、いかに現代社会がモバイルになってきているかということがわかる。
たとえ一つの家族が同じ時間と場所を共有していても、奥さんがテレビを見ていて、お兄ちゃんがインターネットの掲示板を見ていて、お姉ちゃんがメールをしていて、お父さんが部下と電話をしていてれば、そこにつながりはない。
そこにいる人間たちは、底の場所にはいない人たちともっと深くつながっている状態になっている。その場にいる他の人間は意識の範疇におそらく存在していない。現代の我々に取ってリッチネスの低いそれらのコミュニケーションは、リアルをある程度は代替出来るものになっているから、その不足はフリークエンシーで補えている可能性すらある。同じ場所と時間を共有している人間同士のつながりを超えたつながりがそれを共有しない人間同士のつながりにすでに背中を見せている状況になっているのではないかとおもう。
自分はその場所にまったく自分とのつながりがないところに暮らして、そこにつながりができはじめたところで次の場所に進むという生活を続けてきたから、普通の人のようにリッチネスの高いコミュニケーションを継続的に毎日する人が存在しない中で、リッチネスの低いコミュニケーションを継続的にする人がたくさんいる状況に身を置いてきた。
きっと研究者にとってもあまりにも面白い題材だろう。
これほど手軽に移動が出来て、かつコミュニケーションが出来る世の中において、自分はある特定の場所。自分にひもづいた場所。家がないという状態をもう二年間も続けてきた。
もう、自分は家があるという状態を覚えていない。今自分にあるのはつながりだけで、そのつながりは時間と場所を超えても存在できるつながりだけだ。(フランクフルトの同僚もずっと旅をしているから、実際に会う機会は本当に貴重)
たぶん、そこからの本当の学びは、東京に戻って、しばらく住んだ後じゃないとわからないのだと思う。
また書きます。
2008年01月28日
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