昔、あまり世の中に切羽詰まっていなかった時は、つらつらと考えていくだけで自分なりに自分の姿形を描き出すことが出来たし、それを自分の言葉で社会に照らし合わせながら説明することが出来ていた。
このブログにもいくつかそういう時に書いた記事が眠っているので時折そういうものを再度紹介する機会を作りたいと思う。今回は、
廃人 ー現代の人間失格ー
という作品を取り上げたい。この作品は今から5年半前、自分が学部生で、しかもやっていた事業はあらかた安定し、そしてその後の方向性も定まっていたときに書いた文章だ。廃人とは何かということを論じた物で、それを出来うる限り多角的に解りやすく分析している。
現代社会、現実社会で満たされない欲求の積み重ねがもたらす自己防衛のプロセスは、一般社会から見れば破滅への道であり、認めざれうる方向性である。しかし、この現代社会において、マスメディアによって不自然なまでに高められる個々人の人生に対する期待値はおよそほとんどの場合実現されうる事はなく、それが期待値と現実とのギャップが絶望を生み、程度の差はあれど、個々の人間の内部に廃人的な退廃をもたらす。
およそどのような人間の中にも存在する廃人的な要素、非社会的な自己実現のプロセス。それは必要悪であり、少なくない人間たちの魂に取って、かけがえのない最後のよりどころである。
私は、この文章を書いてから5年間経った今も、未だに社会的なプレッシャーからいつも片足以上逃げ続けて生きている。非社会的な、自己満足のプロセスに支えられて、自由に伴って私に降り掛かる不安と恐怖に寄り添いながら生きている。
白と黒のないこの社会の中で、私の中の廃人は今も生き続けており、そしてその心の暗闇はいつも私の現実に光明を与え続けているのである。
ぜひ感想を下さい。
廃人 ー現代の人間失格ー
彼は先の作品でいうところの廃人ということになるのでしょうか。少なくとも当時、彼は閉じた世界にあって、社会的に役に立たない、無生産な状態だったわけなので、廃人ということになるのでしょう。
それだからといって、彼の絵の美しさはやはり変わることはない。私が行ったゴッホ美術館は、雨が降るにも関わらず、外で1時間並ぶほどの盛況でした。
社会の価値基準というのは、瞬間瞬間ではそうと感じられないけれども歴史を見れば驚くほど変容する。ゴッホの評価の変化もありふれた一例でしょう。
社会と隔絶して生きていくことは出来ないのだけれども、今の社会の価値基準に精神が縛られる必要はまったくない。だけれど、世の中、かくあるべきだの、ノイズもまた多すぎる。私は貝になりたい、とはいわないが、ノイズをシャットアウトすることは、真に生産的になるための重要な行為なのだと思う。廃人とみなされようが関係ないじゃんか。
まさにおっしゃる通りだと思います。自分自身の求める物と、社会の求める物が重なり合うという偶然はいつも起きる物ではないと思います。
ゴッホのような才能であっても、そのときに生きた社会に認められないことはあり得ます。
閉鎖的な社会でしか認められない技能に興味を示す事は、打算的に考えれば愚かな行為ですが、切実な思いを元に考えれば必ずしも否定出来る事ではありません。
ただ、ほとんどの人間は、貝になり得るほど、社会から隔絶されても生きていけるほどの資産を持っていませんので、社会との折り合いをつけながら生きていく必要があります。
また、たとえ資産があったとしても、社会という自分を認識する他者から完全に隔離された形で人が人の形を保つのはかなりの忍耐を必要とするでしょう。
究極的には社会の側が多様性を受け入れる土壌を養っていくのが最適なのですが、それも難しいというのは自明です。
結局のところは我々自身が我々自身の心を強く持って日々を生き抜いていくしかないのでしょう。
少なくとも自分に取っての答えは、時折、自分が廃人である事を意識しつつも、それを許容しながら生きていくという事なのだと思っています。