(単なる日記です)
1969年のボーイング747の完成に象徴されるような大量輸送及び飛行安全技術の継続的な革新、さらには1970年に設立されたエアバス社との熾烈な受注競争によるコスト低減は、その頃から本格化した「人の移動」のグローバリゼーションの呼び水であったと言える。
その影響は様々である。これは間違いなく企業の国際化を手助けしているだろうし、そして各国の文化交流を手助けしているのも事実であろう。しかし、間違いなく、この発展は世界の形を変えた。
今日、どれだけの飛行機が飛んでいるかのイメージが湧かない人は、ぜひ私のこのエントリーに張り付けられた動画をぜひ見て欲しい。
http://www.kotosaka.com/article/111116579.html
この一つ一つが、毎日数百人の乗客を載せ、そして数トンの荷物を載せて飛んでいる。これは、1960年代には考えにくい規模であり、もちろん1950年にはSFの世界の物語である。我々の生きる今は、人の移動がかつて無く、全地球規模で一般化した世界なのである。
数百年前、多くの人々は隣町に行くことすら数年に一度のことであった。例えば、お伊勢参りなどは一生に一度のことであったし、東京に出ることは時として一生の別れを意味することすらあった。
夜行列車にゆられ、数十時間後にたどり着く首都東京。それはその価格からしても、その距離からしても、そしてその旅立ちに要する決意の重さから見ても、とても手軽とは言えない、大きな人生の転機であることがほとんどであったのだろう。
福沢諭吉の時代、岩倉具視の時代。西欧は全く異なる未知の世界であった。文化は全く異なり、そこで食べるもの、着る物、見るもの、すべてが異なる時代であった。海外から渡航するものを助けるようなものは整備されておらず、事前手配と、現地随行員必須の時代である。
しかし今、多くの人々が、気軽に国境を越えようとしている。10万円でヨーロッパに飛ぶことが出来る。今日出発すればヨーロッパには今日着いてしまう。多くの飛行機がベイルート経由で飛んでいた時代は終わり、直通便という言葉が一般化した。ビザの取得も先進国間ではほぼ必要がなくなり、外貨持ち出し規制なんて言葉を知っている一般人はもう殆どいないかもしれない。
この低コスト大量輸送の始まりは、「観光客」という新しい町の住人を作り上げた。彼らは多くの場合たくさん買う。見る。そして食べる。そして、場合によっては多くのお金を持っている。
彼らが、多くの街のかたちを短期間で変えた。
バチカンの大聖堂の屋上にはカフェが出来、スフィンクスの目の前におみやげ屋さんが立ち並び、パリの目抜き通りは瞬く前にホテル群に買収されていった。ギリシャの古い島々にはリゾートホテルが立ち並ぶようになり、スイスの景勝地にはバスが走り、街ができ、そして飲食街が栄えるようになった。
街の形が似てきたとも言える。極論を言えば、我々は同じような空港に降り立ち、同じようにエアポートバスに乗り、同じように中心地を歩けば、同じようなおみやげ屋さんが乱立し、同じようなカフェだ立ち並ぶ街を通り過ぎる様になってきている。
それは、この「観光客」という全世界的に同じようなニーズを持った顧客層に対して各国の起業家が念密にマーケティングを行った結果と言える。どこに行っても安心感を持って買えるように、あえてそれと解り易いデザインにする。ポストカードや、マグネットや、ちょっとした小物など、収集家が多い商品を取り揃える。ホテルはイタリアンと中華を用意し、エステパッケージをとりあえず取り揃える。それは同じ顧客層を狙っているのだから、当然の結果とも言えるだろう。
もちろん逆に、この顧客群は、「特別」も同時に求めている。だから、中央、地方政府は景観規制を厳しくし、環境を守ろうと努力を払い、その街の特別を演出するために多大な努力を払う。実際のところこのような努力の多くは、逆に旅なれた私のような人間にとっては奇怪に映る。真新しく、しかし古く見せかけようとした建物はよくよく見ればすぐわかるし、なかにはディズニーランドの装飾の方が遥かに優れているような場合もある。しかし、もちろん成功するケースも多いし、それが街の魅力を飛躍的に高めた例も沢山ある。
しかし、総じて言えるのは、多くの場所で、同じような場所が広がっていると言うことである。それは、大都市であれば、マクドナルドやスターバックスのような全世界チェーンが創りだすような既視感、同じような高層ビル建築の乱立がもたらす人工的な美しさにも通じるものがあるが、しかしこれは実際のところ私にはまた違うもののように思える。
それは同じような「経験」を感じていると言えばいいのかも知れない。自分が観光客として様々な場所を訪れる中で、同じような経験を重ね、その過程で同質化していく別の場所を感じているのかも知れない。様々な「観光地」で、私は同じような感覚が生じる。
簡単に言ってしまえば、これはただ単に、「慣れた」だけともいえるが、これは「飽きた」にも近い悲しい感覚である。
都市だけではなく、その国独特の文化を誇る街並みに置いてすら、このような既視感を感じるのは、私は少し悲しい。
それは逆に、世界のどこにでも手軽にいけるようになり、そのどこでも同じようなサービスを、同じようなサポートを期待出来るようになったという事実の裏返しに過ぎないのではあるが、しかし、やっぱり、透かし悲しみを感じる自分がいる。
狭い地球に閉じ込められる、そんな自分を感じてしまう。
posted by Cotton at 05:45
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