2010年12月22日

愚かなものから考える者へ、そして受容者から受動者への変質

(例によって思いつきの殴り書きです。将来のために、、)



経済は、そして市場は独立したシステムではない。このシステムは、他のありとあらゆるシステムと結合して、相互に影響しあっている。伝統的な経済学のモデルは、この相互間の影響をある程度単純化して示すことで有益な意味合いを導出することが出来ていた。
 しかし、この学問が見るべき対象は日々変容し、世界の経済を知ることは今まで以上に難しくなっている。
 それには様々な理由をあげることができるが、まず第一に経済参加者の行動パターンが複雑化してきたことがあげられるだろう。


愚かなものから考える者へ、そして受容者から受動者への変質

個人

 例えば今から約100年前、ある人物がアメリカの生産ラインの改善に奔走していたとき、彼が製造現場で見た大半の労働者たちは読み書きも満足にできない、彼曰く「愚かな」労働者たちであった。さらに今から約150年ほど前、資本家に搾取されつつある労働者を目撃し、新しいユートピアの実現を説いた思想家は、機械に取り込まれ、主体性を失している人間の現実を説いた。250年ほど遡れば、人間個々人が自由意志をもって、本来的にはそれが存在する価値観や伝統から解放されえるものであるという発想は、斬新な社会革命的思想として受け止められていたのである。

 立ち返って現代はどうであろうか。60年ほど前の悲惨な時期において、一部の人間達はその手に受け止められなかった自由から逃走するような行為に走ったこともあった。しかし今は100年前とは比べものにならないほど、個人が自由意志を持って、情報を独特に処理し、そして発信し、そして繋がり合う時代となった。力のある個人、力のない個人の差はあるものの、世の中に流通する情報の複雑性は飛躍的に高まり、その複雑なシステムがどのような動態を導きだすのか、予測のしにくい世界となったのである。

 このようなシステムをNetworkと捉える人達がいる。彼らは個々の経済主体の間に存在する社会的関係、例えば信頼や文化や力関係が個々人の主体に大きく影響すると考える。それは昔から存在していたが、Social Capitalの蓄積により、そして個々人の教育レベルの向上、また「自由」という意識の向上、さらには個々人の情報発信能力の向上により、そのもたらす影響は、とても大きくなりつつある。

 もちろん、その意味合いとして導きだされるのは、これらの変容により、100年は成り立っていた前提が、許容できないほどの規模で成り立たなくなっているのではないかという疑問である。人は自由になった、単に利己的な猿ではなく、単に近視眼的な金銭を追い求めるだけではなく、様々な便益を個々の尺度で追い求める粗存在に次第に変容しようとしているのが現実である。
 

企業

 100年前、それはようやく大量生産の時代の入り口に差し掛かった時代である。職人たちが店の軒裏で彼らのスキルを元に商品を編み出していく時代から、ようやく生産活動というものが企業の手にほぼ完全に移りはじめようとした時期であった。200年も前になれば、未だ鉄道も鉄鋼業も貿易も巨大組織そして成長するにはいたっておらず、政府のもたらす経済に対する力というものは、圧倒的な力であったと言える。紀元前3500年にはすでに、メソポタミアにおいて手工業生産の集約が起こっていたというのは事実であると言われるが、しかしそれは経済全体から見れば一部の動きであった。

 企業の経営も今から考えれば単純に行われており、80年も前であれば、単純に頭のいい、論理的に考える事のできる外部の人間が情報を分析するだけで、その企業の業績を劇的に改善できることも多々あった。企業は市場の値動きに左右され、まさに経済体の中で、それの動きにただ単に左右される存在でもあった。もちろん一部の財界人、財閥が大きな力を及ぼすことはあったが、それはとても限られた権力側の一部の存在であることが大半であり、その動きが経済にもたらす影響は比較的容易に予測できるものと言えたのである。

 今は大きく違う。寡占化が多くの市場において進み、限られた企業が個々のマーケットに対して大きな力を振るうような状況となった。様々なサービスが商品として提供されるようになった。企業は柔軟にサービスを取り入れ、またそぎ落とすことにより、受給変動、市場変容に対してこれまでになく柔軟に対応できるようになっている。アメリカのように政府に巨額の献金を行うなど政策に力を及ぼすものも多数存在する。工場を買うのではなく、生産を外部に委託し、市場に左右されないよう、様々な高度金融商品、保険、技術を駆使して、少なくとも、リスクを最小化するべく日々努力を行なうことで、市場に対して能動的に対応できる技術を身につけてきているのである。

 企業ももはや受動的な存在ではない。力のある存在として、そして能力のある主体的な存在として、利益を複雑に、そして個々独特に解釈し、その力を及ぼしているのが事実なのである。


開いた経済、繋がり合う産業、そして原因不明の政策不調

 多くの企業が国をまたいで存在し、その資源を縦横無尽に移動させようとしているという事実は見逃すことは出来ない。古くて新しい議論だが、第一次世界大戦後に一旦は閉じた市場が、今度はまた多極的に繋がり有る時代になりつつあろうとしているという現実がある。製品が高度化することにより多くの産業が連関するようになり、あまたの新しい産業が生まれ、経済規模は大きく拡大した。

 紀元前1000年から西暦1800年に到るまで、一人当たりの経済規模はほとんど上昇してこなかったが、この200年でそれは12倍以上に膨れ上がったという推計も存在する。

 例えばこれらの理由とも組み合わさり、複雑化する経済主体の動きは、経済のシミュレーションを複雑にし、合理的に設計されたモデルであっても、合理的、また適切な結果をもたらさない状況を生みつつある。一人一人が行動を起こすようになり、そして力を持つ政府以外の存在が、政府政策を翻弄し国家観の違いから富を最大化しようとしている現代は、一昔前とは違った前提条件の中で動いている社会である。

 このような状況下で有効性を持つ一国の政策とはどのようなものなのだろうか。国家の持つ意味とはどのように変わろうとしているのだろうか。これからの経済学はこれらの困難にどのように対処していけばいいのだろうか。有効な答えを持つものは、まだだれもいないのかも知れない。だからこそ誰もが、今日も真剣に様々な手法を模索している。


タグ:経済学 歴史
posted by Cotton at 21:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感(diary) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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