たまにはわかりにくい文章を。単なる雑感と現実逃避です。
国と、組織と、個人の関係性が変わる。そのことについて何度か思いめぐらせたことがある。それは、国の利害と、組織の利害と、個人の利害が、過去にもまして複雑に絡み合う時代となっていることについてである。いわゆるグローバリゼーションの進展により、国は国境を超え、地域統合を図り、相互に連携している。組織は、単なるInternational enterpriseから、Multinational enterprise、Global enterprise, そしてGlobally distributed enterpriseと進化してきた。そして少なからぬ個人が、複数の国に自分のアイデンティティを求めたり、いくつかの組織を渡り歩いたり、多層的な人のつながりの中に自己を置くようになっている。無論そのような動きに無縁の地域や、人々も依然として存在する。しかし、この動きに影響される人々の数は、加速度的に増加している。
このような時代における個人の自己形成を彩るものは、地理的な物理的な「違い」を元にした多様性から、所属するコミュニティ、そこに流れる情報流通の「違い」を基軸とした多様性に次第に変化していく 。
それは単純なコントラスを語れば、江戸時代に村社会で生きていた人間達と、今の私達との比較でも解る。
例えばわずか300名程度の村社会において、時折訪れる旅人からしか外部の情報を得ることができない時代。無論その土地その土地の古来の歴史や風習、そして独特な慣習に中にいる人々は影響され、微弱な多様性の中にも純粋な均質性に保たれた社会を作り出していた。それは、それぞれの地方に、同質的ながら密な交流に源を持つ小規模な集団が、日本国全体を見ればある種多様な、しかし一個の集団内においては均質的な個人の集団を形成している状況である。内部にいる構成員に、選択肢はない。構成員は一つ一つの集団にembedded であり、また多層的に異なる集団に属することは難しい。このような閉じた空間では、その内部のどのような組織に属しても、大枠から見れば均質的な情報交換の影響下に置かれるようになる。今でも、隔離された国の田舎の閉鎖的な町に行けば、PTA活動をしても、消防団に入っても、青年会に属しても、農協に行っても、何かの愛好会にいっても、それらの小グループが同一のそして力強いoverarching グループの影響下にあるがために、それらの小グループが個々人に与える影響の差異は比較的少ない。
一方、現代における個々人は、地理的な束縛を超えた組織体に、しかも多重的に所属することが出来る。 国、組織、メディア、教育機関、趣味の集まり、家族、自分が情報を交換する一つ一つの集団が、一つ一つdistinctiveな情報を個人に与えることもあるだろう。多くの異なる集団が、それぞれに個人に影響をもたらし、個々の個人の特殊性の形成をもたらす時代となりつつある。日本の田舎に生まれ、その都会に育ち、米国の企業に働き、英国の教育機関に勤め、地中海の文化に影響され、ネットのサブカルチャーに身を窶すことが出来るのである。
ある意味特殊な人種と言われていた、帰国子女と言われる人々はその先駆けのような実験とも言える。例えば2つの、全く違う地理的なinstitutionsのクラスターの、複雑なミックスにより影響された個人は、時にどちらの集団からも疎外感を感じ、時にどちらの集団にもSympathyを感じる。間の子のような存在。しかし、それが単にわかりやすい特殊性の事例となるべく、世の中の集団が相互に絡み合いつつある。このブログを読んでいるような特殊な人は、無論このような流れの中にいる筈だ。
この様な状況を俯瞰的に眺める時、人は興味深い事実に気づく。多くの人は選べる。自己の所属する集団を選べる。少なくとも、選ぼうとすることが出来るのだ。
情報を、自らが能動的に探していけば見つけることが出来る時代に、lean-back information consumption は推奨できない。自分ができていないと感じるのであれば、自分が心地よい情報だけではなく、自分が進みたい方向の情報を集め、その情報が集まる場所に自分の時間を、方向性の、舵を切ることが出来るということに気付くべきである。
自分の所属する集団を変える。それは難しい。時間もかかる。誰にでもできるものではない。しかし、受験勉強のような一見無駄に見える努力をしてでも自分自身に社会のレッテルを貼り付けなければ、この複雑な世の中で自分より超人的に優れている人間たちの集団に入り込むことは難しい。自分の知らないことばかりの世界に飛び込むのは勇気がいる。過去の自分を使えない分、ストレスもたまるし、自分の自尊心に傷がつくこともある。しかし、偏った物の見方や、特定の集団の中で自分自身の物の見方を固定してしまうことのほうが、実は明らかに恐ろしい。
もちろん、無理に変える必要はない。変えることがマイナスになることもある。ただ、変えられる、選択できるという意識を持って変えないのと、目をつぶって変えないのには天と地ほどの差がある。自分自身の情報消費、集団帰属、意識の集中、それらの選択を意識しているだろうか。それは自分自身に問いかける必要がある。
先週、外資系の投資銀行を辞めて、シンガポールに移住する友人に会った。日本で起業したが、税制面や日本の将来性を鑑みえて本社を香港に移動するという社長に会った。世界で戦えるために、留学しようとする人々には数百人と会っている。欧米において、自分自身が自分自身のキャリアや、人生の選択に責任を持つべきだという意識を、ほんとうの意味で持っている人々を沢山見ている。
変えるという行為は、実は行動としては緩やかな一歩からも出来る。普段見る雑誌や、新聞を変えることでもいい。ゲームコミュニティも面白いが、勉強会に時間を使ってもいい。それが出来るということが、現代人の特権であるという事を意識すれば、それをしないということの持つ意味を、真剣に考えられるようになるのではないだろうか。
自分が、あまりにも多様なコミュニティに属しながら、それらのコミュニティから複雑な影響を受けていることを意識し、自戒の意味も込めてこの文章を残すものである。
posted by Cotton at 18:38
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随想(essay)
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