2011年12月22日

トヨタのライバルはグリー:走ることの楽しみと、打ち倒すことの喜び

 先日、日本ではジャン・レノがドラえもんになり、キムタクが織田信長になっているというニュースを聞いた。そして、そんな摩訶不思議な現象を横目に、電車の中では二次元の世界で幸せになる若者が跋扈する世の中になっているという。

 かつて若者たちが車に夢中になった事実。そして今我々がソーシャルゲームに夢中になる現実には共通点がある。トヨタも、グリーも、同じ市場で戦っている。同じ欲求を満たしていると見ることも出来るのである。

 走ることの楽しみ、とトヨタは言った。AE86に人々が夢中になった時代、その次代を現代に復活させることが使命であると打ち立てた。若者が車に夢中になった時代、その次代を現代に再現させたいとのビジョンを示した。

 では、その楽しみとは何だったのだろうか。大垂水峠を賑わせた走り屋達、それに憧れた取り巻き達、そこに存在していたものは、ただ単に、純粋に走りを楽しむというだけではない欲求の充足であったのである。


峠には、最速を競う人々、それを追う人々、それを観戦する人々がいた。
 最速を競う人々は、時間も、お金も惜しまない。200万円の車を中古で買い、足回りも腰回りも、全てを入れ替えて最上の車に仕上げる。毎日峠に通い詰め、それを人生の糧とし、より早く走ること、誰よりも早く走ることを目標に消費を繰り返す。
 それを負う人々は、そのグループの構成員と認められる事に喜びを見出す。もちろん、最速を競う人々に入り込もうと努力するものもいるが、しかし多くはその最速を競う人々と同じ集団で、同じ空気を感じ、そして研鑽し、時には別のグループと争うために必要な時間とお金を投資する。
 観戦する人々は、そこまで時間もお金も払わない。しかし、それに人生の一部をかける人々とともに時間を過ごすことに楽しみを見出す。それはスポーツを鑑賞するような喜びであり、戦う人々に彩りを添える存在である。
 観戦する人々とそれを追う人々は、最速を競う人々に魅せられた。逆に最速を競う人々は魅せられているという事実によって自分自身の行いに更に意味を見出し、研鑽に励んだ。それを追う人々は、その行為に高潔な使命を持って挑む最速を競う人々に憧れ、競争社会を築きあげていった。
 垂水峠のような有名な場所だけではなく、全国に小さな集まりが勃興した。各地で各地の有名人が生まれた。走り屋という特殊な世界は、しかしそのなかに一つの構造を持っていた。その中で生きることの喜びが、単に走ることの喜びに大きな彩りを与えていたのである。


ソーシャルゲームにも、廃課金、課金厨、無課金ユーザーがいる。
 廃課金というのは蔑称であるが、しかし畏怖の意味を込めて使われる言葉でもある。彼らは特定のゲームにおいて神のような存在として認知される。彼らは課金しているだけではなく、その世界に人生を賭けている。そこにおける存在は、彼らにとってとても重く、特別な意味を持っている。勿論、課金をせずとも、単に廃人となることでこの粋に到達する人間たちもいる。
 課金厨は、廃課金と共に生きるが、ときにその域を目指すが、しかし彼らのような存在ではない。チームの一員であり、時に幹部と称されるゲーマーたちである。あるゲームの世界において特別な存在になることに意味を見出し、神のような存在である廃課金と共に生きる人間たちである。
 無課金ユーザーは、コミュニティの一員であり、廃課金と課金厨がもたらすリアルな繋がり、真剣さ、強さ、高い次元での争いに魅せられる人々である。単純にゲームを楽しみ、そしてその上で展開される人と人との争いに魅せられる人々といえる。
 峠に見られたのと同じような繋がりがある。繋がりがあるからこそ、もっと時間を使おうとする。もっとお金を使おうとする。その閉じられた世界に価値を感じ、その世界で生きる時間を大切にしようと思うのである。無論、ゲームによってこのような人と人のつながりが薄いゲームもある。しかし、大きな盛り上がりを見せるソーシャルゲームは、これまで暗にしか貢献しなかった繋がりの価値を明示化させ、そのもたらす価値にダイレクトに訴求している。そしてこれが、ソーシャルゲームの革新であるともいえるだろう。


これまでのゲームにも、そういった価値は存在した。
 例えば、ドラゴンクエストをすることは、ドラゴンクエストをすることによって小学校のコミュニティに参加するということであった。人よりも先に進み、人にアドバイスをすることが出来る人間になることが、誰よりも好きな人間達がいた。学校に行って、単に会話の中に入って盛り上がれることに楽しみを覚える人間たちがいた。誰かの家に行って、マリオを神のように操る友人に、声援を送るだけの人々がいたのである。
 ゲームセンターに行けば、ダンスダンスレボリューションに人生をかける人々がいた。ただステップを成功させるだけではなく、全身で芸術を表現し、人々の歓声を集めるヒーローがいた。もちろん、はやりに乗るために、コミュニティの一員になるために、そこに参加する人々がいた。それを見て、その芸術性に魅せられる人々がいたのである。
 エンターティメントのもつソーシャルな価値、それは多くのスポーツ、そして趣味に存在する。ガンダムシリーズのセリフを諳んじれば、そのコミュニティにおいて神の一人となれるだろう。ポケモンをマスターすれば 、ヒーローとして君臨できる時と場所があったのである。電車でもいい。飛行機でもいい。人間がソーシャルであり、価値が主観的に定義される以上、その行為そのものがもたらす価値とは別に、その回りにいる人々がいることによる価値が、その行為の価値に大きな影響をもたらすのである。


トヨタの新型86は、「走ることの楽しみ」の全てを取り戻すことはできないだろう。
 私は、トヨタの新型86はとても良い車だと思う。その車がもたらす価値は、間違いなく、純粋な走ることの楽しみを届けてくれるだろう。しかし、それだけでは過去の栄光は戻らない。なぜなら、車で走るというエンターティメントが、ソーシャルな価値を失ってしまった現代であるからである。
 自動車や自動二輪車による走ることの楽しみは、残念ながらリアルな社会との葛藤を生んだ。それがもたらすエキサイトメントは、それがリアルな社会に存在せざるを得なかったという社会的事情により、弾圧され、粛清された。その世界でヒーローになることが、この世界で犯罪人になるという事実が強調され、築き上がられた世界は次第に崩れ去っていったのである。
 無論、ソーシャルゲームも社会問題として取り上げられている。それはもちろん、そのムーブメントが大きいがゆえに、この世界にもたらす負の要素が強調されているからである。しかし、現実としてその世界がバーチャルであることが、その世界の多様性を生み、多次元性を生み、これだけの広い海を作り出している。
 恐らく、トヨタはこのソーシャルな価値に革新をもたらした企業群に勝てることはないだろう。車がかつて持っていた、そのソーシャルな価値を再生させることは難しいどころか非現実的であり、もちろん、彼らはそれに挑戦しようとはしていないからである。


posted by Cotton at 05:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 随想(essay) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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