2012年05月13日

若者たちの直面する無理ゲー:ドーハで出会った若者との対話

 

 

ある時、私は中東のカタール、ドーハにいた。

 

 
 プロジェクトの現場責任者代理としてクライアントとの共同作業をしていたのだが、とても余裕のあるプロジェクトだった。4時にはかえってホテルの自分の部屋でまったりと受験勉強をするか、それともウォータースポーツに興じるか、はたまた読書に興じる毎日だった。
 次第にホテルの提供するプログラムにも飽きてきて、ただ単に周りを散歩するような毎日が好きになってきた。そのホテルは大規模開発の地域に隣接しており、周りには華々しいデザインの建物群が完成半ばではあったが並び立ち、初見では熱気に満ちた光景が広がっていた。しかしその一方、その熱気は、それから一年も立たずに発生した経済危機の徴候を示すかのごとく、人工的な熱狂が創りだす不自然を感じる場所であったのも事実だったのだろう。どこかしら空虚な気持ちを湧き起こさせる場所だった。
 今思い起こしてみれば、その空虚な気持ちを感じさせたものは、実は経済危機の予兆や、人工的な街作りや、そのまわりに広がる砂漠の景色でもなんでもなかったのかもしれない。その景色の中の一部の、普段は気にも留めなかった、僕らと同世代の人々の思考の波のようなものだったのかもしれないと今は思う。


Doha_from_car.jpg


 恐らく欧州か米国から輸入されたと思われる中古の大型トラックや、これも年代物と感じさせる大型クレーンがけたたましい音をあげるのを背後に感じつつ、私は静かな海を眺めていた。
 その海はかつて天然の真珠の名産地として栄え、砂漠の民に豊かな暮らしを約束していた海であった。その恵みの海はその後、とある日本人が真珠の養殖方法を確立してしまったがために没落し、人々の暮らしは困窮することとなる。
 しかし何のめぐり合わせか、その恵みをもたらしていた海底の更に底の地中から、豊富なガス資源が算出されるようになる。それが主に日本に輸出され、またしても大きな富をもたらすようになる。その富を背景として、この国はかつて中東のパリと言われたベイルートが君臨していた地位に駆け上がろうとしているドバイに、追いつき、追い越すために多大で積極的な開発投資を行なっていたのである。
 しかしもちろん、そんな人間のエゴを超えた場所にその海は存在している。巨大とは言え内海であるこの海は、多少の風では穏やかで、また背後に迫る灼熱の砂漠とのコントラストからか、生命の息吹に満ちた優しさを感じさせていた。

 その時私は、海を眺めている集団の中にいた。その海を眺めている集団の中に、ただ何もせずに、知り合い同士であると思われるにもかかわらず、しかし二時間以上一言も発しない4,5人のグループがいるのに気付いた。
 もちろん、二時間以上同じ場所で海を眺めている独り身の東洋人も大いに不審だが、しかし彼らの存在も何か不思議であった。別に絶望するでもなく、私のように海に見惚れるでもなく、ただそこにいる彼らは、とても不思議な存在だった。
 しばらくして、私はホテルに戻った。不思議に思ったからと言って、しかしわざわざ人に話しかけるほどの社交性を私は持ちあわせていなかった。おそらくそれは、土曜の昼下がりを終え、流石に日曜からの仕事のことが頭によぎりつつあったからに他ならないだろう。ホテルに戻り、そして会社のパソコンを開け、資料に目を通し、ジムにいって汗を流し、そして早目に寝ることとした。
 それに続く一週間は、激動の日々だった。弁護士事務所から届いた書類の確認や、また技術的な面をアドバイスしてもらっていたITコンサル会社のスタッフとの協議など、比較的忙しい日々が続き、その前の週末に見かけた彼らのことなど、すでに完全に忘れていた。


 そして気がつけば、次の週末がやってきた。普段なら週末を利用して周辺国を旅して回るのが日常であった。しかし忙しすぎたのか、何の準備もなく、またそのヤル気もなく、私はそのまま惰性のままに週末に突入した。
 私はまた散歩をしていた。同じように散歩をして、同じように海を眺めていると、前の週とほとんど同じ光景が、その海と、背後の建物群と同じように広がっていることに突如気付いた。

 彼らである。 前の週に不思議に感じ、しかし特と気に留めることもなくやり過ごしていた彼らが、恐らく間違いなく同じ彼らが、そこにだらりと座って、ぼんやりと立って、その内の一人などは、中腰で廃材から簡易的な釣具のようなものを作ろうとしていた。
 漠然とでしかなかったが、ある種の衝撃が走った。それは、自分の常識の範疇から想像することの出来ないものに遭遇した時に感じるような衝撃である。なぜ彼らは、すでに人生の黄昏を迎えて感傷に浸るような目で、この母なる海を眺めているのだろうか。なぜ、先週も、今日も、同じようにここにいるのだろうか。なぜ彼らは、お互いに話さないのだろうか。不思議以外に何も感じることはなかった。
 贔屓目に見ても豊かな人達には見えなかった。年齢も正確には分からないが、二十代の前半か、後半か、私と同じぐらいかそれ以下位であったと思う。しかし、その存在から生気を感じることがなかった。
 純粋な好奇心が、恐怖を上回り、私は彼らに近づいていった。


 近づく。しかし、彼らは気付かない。

 私はぼんやりと立っているその一人の横に立つ。しかし、彼はこちらを見ない。

 私は彼の方を眺める。しかし、彼は気付かない。

 少しばかりの時間がすぎる。

 彼がゆっくりと私の方を見る。


 私は、この時の彼の目を、一生忘れることはないだろう。その目は、透き通っていたが、底のない、感情を感じさせない、水晶のような、力強く、悲哀はなく、しかし希望の無い、見たことのない瞳だった。

 「Good view (良い眺めだね)」と聞いてみる。
 彼は軽くうなづく。

 「Do you work here? (ここで働いているの?)」と聞いてみる
 彼は軽く後ろを指し示すかのごとく軽く首を華やかなビル群へと向ける。

 一瞬の間があく。私は、「I like the sea too. (私も海が好きだ)」と投げかける。
 
 彼は一言、Yes. と言った。


 その間、他の4,5人はこの異邦人に気を止めることはなかった。私は彼との間に感じた一つの共通項を胸に、また海のほうを見た。好奇心も忘れて、海風を感じていた。
しばらくして、多分、5分か10分か、ぼーとその先を眺めて、私は彼を見て、彼もまた私を見て、目線を合わせるだけで、私はその場を立ち去った。


 その後、彼らに遭遇することはあっても、彼に会うことは二度と無かった。その次の週、私はクェートに行く用事があった。その次の週はたしかドバイかバーレーンにいたと思う。その一瞬の遭遇を、噛み砕いて考えるほどの余裕を、私はその時は持ちあわせてはいなかった。その時、その遭遇の瞬間、そこから先の会話に進むべきではないと、私は直感的に思ってしまった。それがよかったのか、悪かったのか、それは私にはわからない。
 そもそも、複雑な会話が成り立っていたかも怪しい。単純なセンテンスだったからこそ、そこに受け答えが存在したのかもしれない。その単純なセンテンスが受容する曖昧さが、相互の間に存在する大きな違いを許容していて、あたかも同一性を持つ個人と個人のように見せていたのかもしれない。一つだけわかっていることは、このあとの人生で私が彼と再会することは、無いであろうということだけである。

 後日、ある国の王族の片割れで、海外留学をした後に現地の組織の幹部になっているクライアントとの雑談でわかったことがいくつかある(数字の詳細は確認していないから誤謬があるかも知れない)。ここで働く労働者の多くは実際は月給200ドルに満たない。彼らの母国はインド、パキスタン、バングラデッシュなどの国が多い。彼らの多くは何人も兄弟がいる中の下の方だという。多くは7年ほどの契約で彼らの母国から来ている。最初にエージェントに多額の費用を払わなければならないのでなかなか貯金はできない。また7年ほどの契約期間の後にもこの国に残るのは極めて難しい。逆に、その後に母国に戻っても高度なスキルが身に付いているわけではないので、職に就くのは極めて難しいのだという。私は彼らを同年代か少し下かと思ったが、年齢を詐称しているケースも多く、十代の半ばで来ているのではないかと思われるケースもあるのだという。彼らの一日の収入では、ショッピングモールに行くためのタクシー代すら払えない。

 この過酷なゲームを、彼らは勝ち抜く事が出来るのだろうか?

 我々日本人が危機感を持っているような、英語を勉強しなければ生きていけない。これからはグローバルエリートの時代だ。長期的なキャリア形成をしていければ勝ち残ることは出来ない。そういった議論は一体どう理解すればいいのだろうか?
 彼らにとって、「これ」はそんな戦略や戦術レベルの議論ではない可能性が高い。もはや、ゲームの構造上、生まれた瞬間に、そのゲームに参加しなければいけないという構造にロックインされた瞬間に、例外的な可能性を除いてもはや勝つことが出来ないゲームに彼らは参加しているのではないだろうか。

 こういった格差は、普段は見えることがない。国境を超えなければ見えてこない格差なのかもしれない。住む場所が違ったり、行動する場所が異なれば、簡単にベールに置い隠される違いなのかもしれない。しかし、時として、それがクリアーに見えてしまう場所がある。
 私にとって、中東、特にカタールやドバイは、その最たる場所であった。公官庁や政府系企業のトップに現地人が学歴や実力抜きにして君臨し、その直下で欧米から高額の報酬でヘッドハントされたマネージメントが差し込まれ、それをサポートするかのごとく、欧米の外注企業からの派遣スタッフ(私のポジションはここであった)が意思決定に関わる。中国やその他のアジアからの人材がサービス産業、例えばホテルでのマネージャーとして採用され、さらに賃金の安いところに、母国では食べていけない単純労働者たちが日々を暮らしている。
 古き良き日本のように、大学生時代はマクドナルドで働くが、企業に入ったら多少待遇が良くなり、年をとったら大企業の幹部になる可能性があるというような年功序列の格差の国ではない。自分と同じように生まれ、しかし、生まれる場所が異なるという事実だけで、超えられない、いや、著しく超え難い、格差の壁を目の当たりにしつつ、しかし日々を生きていかなければならない人々が同居する国が、世界にはまだたくさん存在するのである。


workers_walking.jpg


☆☆☆

 私は、中国やシンガポールで野心に燃える若者とも沢山出会ってきた。しかし、この出会いは私の心に深く残っている。
 野心を食い破られるほどの、苦悩を超えた精神の状態。それを目の当たりにした時、私達が置かれた状況がいかに恵まれているかを深く思ったのである。


p.s この物語はノン・フィクションである。

posted by Cotton at 19:56 | Comment(2) | TrackBack(0) | 随想(essay) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
時々拝見させて頂いております。

私は40代、平均年収より少し低い地方の会社員です。オーナーさんのような、世界を舞台に活躍されている方は何を見てどう考えてられるのか?能動的に、孤独に、また遠くを見ておられる様を参考にさせてもらっています。

でも、本当に人生とは何なのでしょうねえ。経済面が人生の幸不幸の大きな要因なのは間違いないですが、貧しい人ほど選択肢も少ない、余りに軽い命の存在です。

こういう話を聞きました。
神は137億年もかけて宇宙を創りながら、100年も生きない人間の創造が目的だったのか?否、蝶と幼虫の関係のように、死後の魂で蝶のように永遠を生きることが目的であり、肉体は幼虫の期間に過ぎない。しかし幼虫の期間がどんな蝶になるかを左右する。だから肉体は健全に生きねばならないし、また必要以上の長寿を臨むことない。人生は様々なれど神の前に自分の人生の最善を尽くすしかないと。

まあ、なるほどとは思いつつ、人間死ぬには惜しく、生きるには苦労ばかりです。
でも時代が変わります(これから元首交代も多いですね)。人それぞれ使命があります。オーナー様のように何かできる方は、その分野で頑張って頂けたらと願う次第です。


Posted by 山田創 at 2012年06月11日 17:20
ご丁寧なコメントありがとうございます。
誰にとも無くとも、書いている価値があるというものです。

フラフラと生きているうちにこういったところに来てしまいました。仰られるように人の命は短く、そしていつの間にか過ぎていくようです。

やっとこさ、自分の残りの時間をどの様に使おうかわかりかけてきた所です。
自分自身の今までの投資を無駄にしないためにも、100年も生きない人間の、少なくとも数千年の営みの構造を理解すべく、残りの時間を使えればいいのではないかと思っております。
そしてまた、自分がいまこれにあることを助けてくれた人達、組織、物事に対して、人並みの恩返しができる行き方を模索したいと思っています。

今後共、眺めて頂ければ恐悦至極に存じますm(_ _ )m
Posted by コットン at 2012年06月12日 06:59
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