2012年05月24日

日本の大学が衰退する時:悲観的な可能性に関するブレイン・ストーミング

 高等教育機関の代名詞たる、大学。

 これが人材の輩出帰還としての重要性を持ち始めたのは、何時頃からなのだろうか。高等教育機関として、教育を望む人達に教育サービスを提供するこのビジネスモデルの今後は、どうなるのだろうか。
 数字を引っ張ってくる労力も惜しいし、時間もないので、とりあえず可能性を列挙してみようと思う。別に厳密な議論をするつもりはない。少し考えればわかる範囲での思考をしてみよう。


 大学卒業という資格が知識生産階級として生きるために必須となったのは、実はそれほど昔の話ではない。そもそも、日本が高等教育機関を整備したのは、明治よりも後のことと言えるだろう。日本に限らずとも、大学を卒業すること、というのが非常に重要であると思われるようになったのは長い視座でみれば、 最近のことと言える。厳然たる存在感と、権威を持って存在しているこのビジネスモデルも、ただそこに座していればその地位を保てるわけではない。絶対君主制も崩れた。共産主義も去った。もしかしたら、この制度も、消え去る時が来るのかもしれない。

 無論、理由なく消え去ることはないだろう。現にこのビジネスモデルは存在し、そして社会から金銭を調達し、そして「何か」を生産し、それにより価値を認識されている。
 今のところ、そもそもそれが提供している機能に根源的なニーズが存在しており、そして他の代替材よりも大きな価値を持っているのか 、それらよりも低いコストでアクセスできるのだろう。
 しかし、今それが出来ているという事実が、これからも出来るという事実を示すということは、無い。変化の予兆はすでに見えており、そこからの脅威は、もしかしたら一瞬で市場を駆逐するかもしれない。
 あるいは、この商品自体は存在するだろうが、しかしその価値や社会的地位は異なったものになる可能性もあるだろう。明治の頃は散髪が出来る人は、理容師「先生」と言われて尊敬されていたという。鉄は国家なりであった時代の就職人気ランキングは、別に確認はしていないが、製鉄所が一番であったに違いない。多くの場合、歴史の移り変わりは、止めることが出来ない。
 では、どのようにこの大学、というビジネスモデルが駆逐されていく可能性があるのだろうか。これを単純に考えてみよう。 

1. 競争の激化
a. 既存競合の脅威
b. 新規参入者の脅威
2. 市場の衰退
a. 総需要の減少
b. 代替品の普及

 別にどの教科書をめくるでもなく、適当に可能性を考えてみると、上記の様な脅威を指摘できる。以下、これらを一つ一つ洗っていこう。


競争の激化−既存競合の脅威

 単純な話だ。国境を超えることが気軽になり、高校生でも気軽に英語を話せるようになれば、これまでに競合と認知していなかったプレイヤー、例えば、海外の大学との競争にさらされる。
 昔、韓国の製造業が、日本の高品質と中国の低価格の板挟みになって苦悩していた時代があった。それと同じような現象が起こりえるだろう。

 高品質を歌う欧米の大学院や大学と、研究の質や、また教育の質の面で直接的に競合するだろう。今でもそれは顕在化しつつあるが、それがさらに一般的な傾向になる可能性がある。
 一線級の人材が海外に流れ出す構造になり、研究者がシンガポールなどに引き抜かれ、若手が日本に戻ってこない状況が恒常化するのかもしれない。
 それはすなわち、長期的に見れば、日本語を話せる、日本文化を理解できる研究者が海外の大学にも沢山存在するという未来も想定できる。日本語で、日本の研究を出来る研究者の大半が日本にしかいないという状況が終わる時、これまで日本ですることが最適と考えられていた領域ですら、こういった流れが加速する事態も予想できる。

 この競争は、ただ、学生を獲得するという部分だけではない。社会人教育や、書籍の販売、講演といった部分にもその脅威は入り込んでくる。これまで単に、海外の文献を翻訳して出版したり、ろくに引用もせずに自分が話しているかのごとく海外の知恵を拝借していたようなモデルは、もはや成り立たなくなるだろう。
 ハーバード大のマイケルサイデル教授の事例がわかりやすい。日本という美味しい市場で、これまで日本の教授が独占していた立場を、日本の一流ではなく、世界の一流が恐らくより高いサービス水準を持ってして奪っていく 流れが存在するのである。

 同時に、日本の大学は途上国の大学との競争にもさらされるかもしれない。学費が圧倒的に安い途上国の大学で、英語で教育を受けることが出来て、成長著しい現地の文化や風土を学べるという利点は魅力的だ。 
 彼らが本気で、低価格セグメントから日本の大学に戦いを挑んでくれば、それは大きな脅威となる。高校生の大半が英語を話せるようになる時、海外で学ぶということは、偏差値が高い大学の人達や、「海外」に憧れを持つ学生だけの選択肢では無くなる。その時、日本の大学は低コスト、高付加価値の両面からの競争にさらされるのかもしれない。

 言語の壁と、距離の大きさ、さらには情報の非対称性によって消費者の検討の対象となりえなかった競合が、次第に潜在顧客のレーダーに浮かび上がりつつある。
 これまで比較対象足り得なかった海外の大学と比較され、そして競争をしなければならない時、果たして日本の大学は活路を見いだせるのだろうか。
 現状はまだ、途上国は留学生を獲得するための市場と認知されている。しかし、低価格で高品質な競合が日本の顧客を奪っていく土俵になる可能性すら、考えることが出来るのである。

 近年、多くの日本の教育機関が海外に出先機関を作って営業活動をしていると報じられている。しかし、ハーバードやオックスフォードですら世界中に出先機関があり、現地で精力的な営業を行なっているのである。世界の競争は、限りなく熾烈である。その競争は、既にすぐそばにまで来ている。


競争の激化−新規参入者の脅威

 大学も事業である。社会の発達の過程でデファクト・スタンダードとなったこのサービス提供形態も、変わらなければならない可能性がある。今は大学専業のプレイヤーの独壇場であるが、それがこれからも続くとは限らない。

 新規参入者として一番顕在なのは、昨今大量に創業したインターネット大学であり、また新興勢力の大学院だろう。アタッカーズ・ビジネススクールであったり、グロービスであったり、SBIの大学であったり、それらの事業者だ。
 学校によっては非常に高い教育の品質を誇るものもあり、一定の評価を上げているプレイヤーもいる。しかし、彼らはまだ荒削りで、また専門学校的な要素の強いプレイヤーが中心だとする識者もいる。
 しかし、例えば彼らが、世界の一流ジャーナルに投稿できるような研究者に対して、日本の大学が支払わないような、支払えないような、数千万単位の報酬を提示して研究者を引き抜きはじめたらどうなるだろうか。
 経営者として一線で働く実務家教員が教育を担当する。研究に打ち込む海外PhD取得済みの研究者が豊富な資金で用務を免除されて研究に打ち込む。さらには、法人経営が経営者マインドを持った経営陣によって戦略的に立案される時、もしかしたらこれらのプレイヤーは既存の大学組織を打ち破るかもしれない。
 甘く見てはならないのかもしれない。敗北は、いつも油断から生じる。

 さらに、異業種からの兼業参入も顕著だ。アップル、GE、マクドナルド、ソフトバンク、資生堂といった組織は社内教育を主な目的としてではあるが、社員向けの教育機関を持っている。
 これらの機関は大小様々で、小さい所は大学との競合など考えられない。しかし、興味深い動きも多々ある。例えば、アップル大学(Apple University)といわれる組織がYale大学のビジネススクールの学長をヘッドハンティングして、学長にすえたのは有名な話だ。
 この社内組織は多額の予算を持ち、ハーバード・ビジネス・スクールの教授陣に討論用のケースを執筆させている。Tim Cookら現首脳陣が、「実務家教授」として将来の経営幹部候補生に対して、独自の教育プログラムを提供していることが明らかにされている。
 さらには、ANAや東レ、ディズニーランド(Disney Institute)のように、その教育プログラムを内部にだけではなく、外部に対して販売する組織も数限りなく存在するようになっている。
 こういった動きが意味するものは何なのだろうか。過去には自動車会社や、電気会社が自ら学校を作っていた。造船会社が、研修所と称して高等教育を提供していた時代もあった。大学の生産物たる人材を、生産する方法論としての組織形態は、大学以外にも無数に存在していたのである。
 公共教育機関として、いわば教育のアウトソーサーとして、大学という組織形態が興隆している現在、にわかには信じられないかもしれない。
 しかし、遠くない将来に、この事業モデルに対して、もっと細分化された教育が一般的になり、それが今存在している多くの大学というプレイヤーの資金源を食い破っていく可能性は、無いとはいえないだろう。

 そしてさらには、既存の大学が、英語教育や資格教育など、より実務的な就職に直結すると歌われるセグメントに注力するならば、もちろん、それの専門家たる会計士の学校や、英会話学校と直接的に競合になる。彼らが大学生たちの市場を狙うために、横滑りのようにかつて大学が担っていた市場を侵食し始めることもありえるだろう。

 今は、社会的に共有された暗黙的な価値の上に特権的な階級に存在する大学は、しかし冷静に考えてみると、類似する事業モデルを提供し始める強力な新規参入者の脅威に晒されているのである。


市場の衰退−総需要の減少

 総需要は、例えば日本だけを考えてみれば、その規模は減る一方と言われている。単純に、日本国の総人口が減っているのだから何もしなければ比例してその中に存在する大学がターゲットとする市場は縮小する。
 外国のマーケットに漕ぎ出せなければ、社会人教育向けも、専門職向けも、研究者向け大学院も、そして学部教育も、元々のパイが小さくなるのは誰でも解るだろう。
 また、研究や社内研修にて最大の顧客だった日本企業の陰りも、大学という組織に影を落とす。彼らの予算規模が少なくなればなるほど、もちろん、大学に落ちるお金もへり、それにより大学は力を失うだろう。

 総需要は、さらに単純に分類すると顕在需要と潜在需要に分けられる。 
 顕在需要は、日本で言えば、高校卒業後に大学に行く人達、または行きたくてもいけなかった人達をさす。また、 社会人大学院や専門職大学院のようなところに行っている人達、行きたいがいけなかった人達もそこにあてはまるだろう。企業の研修などもその一部かもしれない。
  逆に、潜在需要は、例えば大学がコースを提供すれば、プログラムを少し変えれば、より高いROIを示せれば、学費を少しでも下げれば、彼らの年収が少しでも上がれば、大学に行く人達のセグメントをさすと言えるだろう。

 顕在需要と潜在需要の間の移動は、組織間の競争や、その結果でもある マーケティング努力に、または政策的なものにも左右されるだろう。
 第一に、大学に対する顕在需要が減る可能性としては、消費者のそれに対する価値の認識、またはそれが提供する実際の価値が低下することによって発生する。
 手鏡を手に握りしめて女性の背後から忍び寄る教授や、実務家の罵倒に対してまったく反論ができない研究者は、おそらく大学、というブランド品に対する信仰にネガティブに働くだろうことは間違いがない。
 大阪のカリスマ的な市長が糾弾を続け、ろくに研究業績もない実務家教授が10年前の物事を元に教育をすすめる状況が続けば、消費者の大学に対する価値の認識は次第に衰えていくのかもしれない。
 もし、10年近くも教える内容を変えていない教授陣が多数いるとすれば、世の中が求めるものが絶えず変化し、また世界の学会の常識も進化しているだろうがゆえに、その需要がもたらす実際の価値が、実際にも低下する可能性はある。無論それは、大学という商品形態が獲得できる顧客の減少を意味する。

 大学という組織の、製品開発や、営業、サポートの努力そのものの欠如により、顕在需要の比率が低下していく可能性が考えられるのである。
 大学を卒業するということでは、職を得られないとすれば、そして、大学で学んでも、それが将来の価値につながらないのであれば、もちろんその商品に対する需要は減るだろう。
 現状では、ある種の情報の非対称性によってか、はたまた単に盲目的な新興が存在するが故か、それとも、もしかしたら「たまたま」、社会で成功している人達の間に大学卒業生が多いと言われているがゆえにか、大学はその価値を認められている。
 しかし、消費者がその商品の実質価値の低さを実感する状況が続けば、もちろんその商品に対する価値認知は一方的に下がり続けるのだろう。


市場の衰退−代替品の普及

 これはまだまだ先の脅威かもしれない。今はまだまだ問題にならない程度の脅威だとも思われる。しかし、着実に市場を奪っていく未知のワイルドカードである。

 極論を言えば、脳細胞に知識を直接埋め込めるような技術が登場すれば、知識詰め込み型の大学教育は完全に市場としては消滅する。人が要らなくなり、単純に音楽を買うかのように、自分の頭の中に知識をインストールすることが出来るかもしれない。
 これもまた極論だが、別に知識をインストールしなくとも、人間がネットワークに接続され、そのネットワークを介して、最適な知識とサービスに接続できるようになれば、大学という一つの場所に滞留して一定の期間を学習に撃ちこむようなモデルが、時代遅れとされるようになるかもしれない。
 こういう話は20年前から存在するし、それもあってインターネット上で教育を提供するというような話は多数ある。しかし現状は、 世界に黒電話が普及しているとすれば、スマートフォンが普及している世界と同じぐらいのギャップがある。ただ、いつか来るかもしれない世界である。

 そんな時代、大学という組織はどのような事業を提供しているのだろうか。知識のアーカイブを保持しているという強みと、その知識を選択できるという力を持って、知識インストール専業会社とか、もしくはナレッジコンシェルジュサービスのようなものを提供しているのだろうか。
 大学自体がそれをできなくて、大学の大半が潰れるのだとしたら、恐らくそこで働いていた大学教員は、そういう会社のコールセンターのようなところでキーボードを叩いているのだろう。

 大学という市場は、複雑化する経済と底に存在する組織、さらには進化を続け大規模化する技術の要請に応じて生まれた社会の公器である。しかし、それが代替されないとは限らない。人間の能力が高まり、技術がさらに進化すれば、人間社会は大学という技術を超えた枠組みを、考案し、実用化し、普及させることが出来るかもしれないのである。


打ち手?

 研究に打ち込む人間として、敢えて悲観的に現状を捉え、ありえる衰退の可能性を列挙してみた。
 大学という組織が静かに市場の停滞と縮小とともにそのプレゼンスを縮小させていくのか、はたまた短期間でこの機能の大部分を代替する勢力であったり、技術であったりに置き換えられてしまうのか、それはわからない。
 逆に、大学という組織が大胆な改革に成功して、社会の中でより高い存在となる可能性も、私は否定しない。
 しかし、いずれにせよ、なんらかの打ち手が必要であることは間違いがないだろう。現状を冷静に見据えれば、一部の競争力のある大学を除いて、大部分の組織がこの世界から消えて行く可能性が指摘できるからである。

  では、どのような打ち手が考えられるのだろうか?

 主力市場である若年層の教育において、大学進学率はまだ60%に満たないという。それを引き上げるために、今ある商品の価値を高めるか、新しい価値で潜在需要を掘り起こせなければならない。
 どのような戦略を取るにせよ、全体的な価値を再確認してもらうために、サービスの提供者たる教育者全員が、提供する価値の磨きこみに日々尽力し、また同時に競争的な環境を導入する必要があるだろう。教職員間で相互に評価し合う仕組みを、さらに整備しなければならないと考えられる。

 大学が就職予備校化しているというが、元来の学問の府として勝負できない大学は、それで生きていくしか無いのかもしれない。変に意味のない学問を教えるぐらいであれば、学生の海外インターンのサポートをする組織に特化してもいいかもしれない。中学、高校の補習校として、高校で一人前の技術者になれなかった人々の再教育機関として位置づけられるような組織も出てきて不思議ではない。

 同時に、これまで大学が提供して来なかったサービスに活路を見出す必要も考えられる。社会人教育はその最たる例であるし、またさらに一歩踏み込んで企業の社内研修プログラムの共同運営に入り込むことも出来るだろう(実際欧米の一流校はやっている。日本でもやっているところはあるだろう)。カルチャースクールのようなプログラムを有償で本気の力を入れて提供しても良いだろうし(例えばオックスフォードはやっている)、もちろん、産学連携や技術連携のようなキーワードで、大学で生み出している技術やモノの現金化に力を入れる必要性もある。

 総需要の定義を変えるための方策も必要だ。これこそが大学が今進めている国際化の意味でもある。要は留学生を呼び込むための施策の推進である。
 アメリカも、昔大学向けの補助金が大量にカットされた時に、多くの大学が留学生の獲得に走るようになり、今の体制の基礎が出来上がったという。それこそ、シンガポールがしていた様に、INSEADの卒業生にはビザを無条件で出すような政策を、リスクを取って打ち出すべきであると政府に働きかけるべきだろう。
 そして、別に日本に閉じこもるではなく、INSEADやシカゴ大、確かジョージタウン大学のようにアジアや中東に分校を作って、そこで大学を経営 するのを試みても良い。
 日本が少子高齢化なら、外に出れば良いのである。世界の一流校はもうやっている。もちろん日本の大学でも出先機関を設立する動きはあるが、さきほども述べたように、まだまだまだ甘い。規模が小さすぎる。

 その上で、日本の研究者も攻めに回るべきかもしれない。理系ではすでに行われているのかもしれないが、日本の文系の研究者ももっと海外で勝負するべきだろう。
 英語で本を出し、講演を重ね、新聞に投函するような、日本でやっているような行為を海外でもすればいい。私は、日本の研究で、海外でも知らしめる価値があるものはたくさんあると思う。生産工程管理であり、サービス産業であり、また単純に文化であり、歴史であり、列挙すれば限りはない。
 日本の伝統工芸が衰退の憂き目にあいつつも、一部で海外進出の声が聞こえるのは嬉しい。研究者も、声を大にして、その優れた研究を海外に発信して行かなければならない。

  また、これまでは考えられなかったプレイヤーとの合従連衡も考えられる。起業の研修プログラムに入り込んでいってもいいし、グロービスのような新興プレイヤーと逆に協業してもいい。同じように国際化に悩む海外の費英語圏の大学とネットワーク化させ、その価値を向上させてもいい。ディズニーランド(すなわちDisney Institute)と東大が共同の教育プログラムを作ってもいいのだ。


 打ち手に限りはない。だからこそ、白地に絵を描く様に、自由な発想でブレイン・ストーミングする必要があると思うのである。
 この記事は、もちろん答えを出すことを目的に書いてはいない。冷静に現状を見据え、その上で、前に漕ぎ出すために書き記すものである。
 この厳しい現状を鑑みるに、これまでの勝ちの方程式にこだわらず、批判を覚悟で、前に進む勇気が求められるのだろう。
 大学は、特殊な組織であるが、社会に価値を与えることによって存続を許されている組織の一つにすぎない。
 既得権益や過去の栄光にすがっていては、これから先にも永続して存在していくことは出来ないのである。


☆☆☆

 私は、市場全体に明るい兆候が見えないからといって、その産業そのものを否定するわけではない。
 例え産業が縮小するとしても、本当に良い物は残る。変化のある市場には、落ちぶれるものがあれば、絶えず興隆するものがいる。
 日本の大学がいくつ潰れようと、教育、研究、そして高等教育機関の運営という機能に対する全世界的な社会的ニーズは消えないだろう。
 そして、たとえ、大学がその役割を終えようとも、その中に存在する研究者や、教育者の役割が終わることは、恐らく、無い。
 
 そもそも、私が研究者への道を進むか(進めるか)どうかはわからない。しかし、それでも私がこの道に進むとしたら、私は何をするべきだろうか。
 簡単である。一人の研究者として、教育者として、私ができることは一つしか無い。現状を冷静に見つめ、一流の仕事をするだけである。

 今が恵まれているからといって安住してはならない。世界が平等に、情報が効率的に行き渡れば行き渡るほど、本当に良い物が残り、理不尽な理由により存在する特権は消え果てる。

 大切なのは、夢を持ち、しかし現状を冷静に包括的に理解することであろう。悲観的にも物事を解釈しつつ、同時に野心的に、楽観的に将来に向けて日々精進する。そのような姿勢であろう。

 自戒の意味を込めて、この記事を残す。


ではまた、、


posted by Cotton at 23:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学問(studies) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック