数字を引っ張ってくる労力も惜しいし、時間もないので、とりあえず可能性を列挙してみようと思う。別に厳密な議論をするつもりはない。少し考えればわかる範囲での思考をしてみよう。
今のところ、そもそもそれが提供している機能に根源的なニーズが存在しており、そして他の代替材よりも大きな価値を持っているのか 、それらよりも低いコストでアクセスできるのだろう。
しかし、今それが出来ているという事実が、これからも出来るという事実を示すということは、無い。変化の予兆はすでに見えており、そこからの脅威は、もしかしたら一瞬で市場を駆逐するかもしれない。
あるいは、この商品自体は存在するだろうが、しかしその価値や社会的地位は異なったものになる可能性もあるだろう。明治の頃は散髪が出来る人は、理容師「先生」と言われて尊敬されていたという。鉄は国家なりであった時代の就職人気ランキングは、別に確認はしていないが、製鉄所が一番であったに違いない。多くの場合、歴史の移り変わりは、止めることが出来ない。
では、どのようにこの大学、というビジネスモデルが駆逐されていく可能性があるのだろうか。これを単純に考えてみよう。
1. 競争の激化a. 既存競合の脅威b. 新規参入者の脅威2. 市場の衰退a. 総需要の減少b. 代替品の普及
昔、韓国の製造業が、日本の高品質と中国の低価格の板挟みになって苦悩していた時代があった。それと同じような現象が起こりえるだろう。
一線級の人材が海外に流れ出す構造になり、研究者がシンガポールなどに引き抜かれ、若手が日本に戻ってこない状況が恒常化するのかもしれない。
それはすなわち、長期的に見れば、日本語を話せる、日本文化を理解できる研究者が海外の大学にも沢山存在するという未来も想定できる。日本語で、日本の研究を出来る研究者の大半が日本にしかいないという状況が終わる時、これまで日本ですることが最適と考えられていた領域ですら、こういった流れが加速する事態も予想できる。
ハーバード大のマイケルサイデル教授の事例がわかりやすい。日本という美味しい市場で、これまで日本の教授が独占していた立場を、日本の一流ではなく、世界の一流が恐らくより高いサービス水準を持ってして奪っていく 流れが存在するのである。
彼らが本気で、低価格セグメントから日本の大学に戦いを挑んでくれば、それは大きな脅威となる。高校生の大半が英語を話せるようになる時、海外で学ぶということは、偏差値が高い大学の人達や、「海外」に憧れを持つ学生だけの選択肢では無くなる。その時、日本の大学は低コスト、高付加価値の両面からの競争にさらされるのかもしれない。
これまで比較対象足り得なかった海外の大学と比較され、そして競争をしなければならない時、果たして日本の大学は活路を見いだせるのだろうか。
現状はまだ、途上国は留学生を獲得するための市場と認知されている。しかし、低価格で高品質な競合が日本の顧客を奪っていく土俵になる可能性すら、考えることが出来るのである。
学校によっては非常に高い教育の品質を誇るものもあり、一定の評価を上げているプレイヤーもいる。しかし、彼らはまだ荒削りで、また専門学校的な要素の強いプレイヤーが中心だとする識者もいる。
しかし、例えば彼らが、世界の一流ジャーナルに投稿できるような研究者に対して、日本の大学が支払わないような、支払えないような、数千万単位の報酬を提示して研究者を引き抜きはじめたらどうなるだろうか。
経営者として一線で働く実務家教員が教育を担当する。研究に打ち込む海外PhD取得済みの研究者が豊富な資金で用務を免除されて研究に打ち込む。さらには、法人経営が経営者マインドを持った経営陣によって戦略的に立案される時、もしかしたらこれらのプレイヤーは既存の大学組織を打ち破るかもしれない。
甘く見てはならないのかもしれない。敗北は、いつも油断から生じる。
これらの機関は大小様々で、小さい所は大学との競合など考えられない。しかし、興味深い動きも多々ある。例えば、アップル大学(Apple University)といわれる組織がYale大学のビジネススクールの学長をヘッドハンティングして、学長にすえたのは有名な話だ。
この社内組織は多額の予算を持ち、ハーバード・ビジネス・スクールの教授陣に討論用のケースを執筆させている。Tim Cookら現首脳陣が、「実務家教授」として将来の経営幹部候補生に対して、独自の教育プログラムを提供していることが明らかにされている。
さらには、ANAや東レ、ディズニーランド(Disney Institute)のように、その教育プログラムを内部にだけではなく、外部に対して販売する組織も数限りなく存在するようになっている。
こういった動きが意味するものは何なのだろうか。過去には自動車会社や、電気会社が自ら学校を作っていた。造船会社が、研修所と称して高等教育を提供していた時代もあった。大学の生産物たる人材を、生産する方法論としての組織形態は、大学以外にも無数に存在していたのである。
公共教育機関として、いわば教育のアウトソーサーとして、大学という組織形態が興隆している現在、にわかには信じられないかもしれない。
しかし、遠くない将来に、この事業モデルに対して、もっと細分化された教育が一般的になり、それが今存在している多くの大学というプレイヤーの資金源を食い破っていく可能性は、無いとはいえないだろう。
外国のマーケットに漕ぎ出せなければ、社会人教育向けも、専門職向けも、研究者向け大学院も、そして学部教育も、元々のパイが小さくなるのは誰でも解るだろう。
また、研究や社内研修にて最大の顧客だった日本企業の陰りも、大学という組織に影を落とす。彼らの予算規模が少なくなればなるほど、もちろん、大学に落ちるお金もへり、それにより大学は力を失うだろう。
顕在需要は、日本で言えば、高校卒業後に大学に行く人達、または行きたくてもいけなかった人達をさす。また、 社会人大学院や専門職大学院のようなところに行っている人達、行きたいがいけなかった人達もそこにあてはまるだろう。企業の研修などもその一部かもしれない。
逆に、潜在需要は、例えば大学がコースを提供すれば、プログラムを少し変えれば、より高いROIを示せれば、学費を少しでも下げれば、彼らの年収が少しでも上がれば、大学に行く人達のセグメントをさすと言えるだろう。
第一に、大学に対する顕在需要が減る可能性としては、消費者のそれに対する価値の認識、またはそれが提供する実際の価値が低下することによって発生する。
手鏡を手に握りしめて女性の背後から忍び寄る教授や、実務家の罵倒に対してまったく反論ができない研究者は、おそらく大学、というブランド品に対する信仰にネガティブに働くだろうことは間違いがない。
大阪のカリスマ的な市長が糾弾を続け、ろくに研究業績もない実務家教授が10年前の物事を元に教育をすすめる状況が続けば、消費者の大学に対する価値の認識は次第に衰えていくのかもしれない。
もし、10年近くも教える内容を変えていない教授陣が多数いるとすれば、世の中が求めるものが絶えず変化し、また世界の学会の常識も進化しているだろうがゆえに、その需要がもたらす実際の価値が、実際にも低下する可能性はある。無論それは、大学という商品形態が獲得できる顧客の減少を意味する。
大学を卒業するということでは、職を得られないとすれば、そして、大学で学んでも、それが将来の価値につながらないのであれば、もちろんその商品に対する需要は減るだろう。
現状では、ある種の情報の非対称性によってか、はたまた単に盲目的な新興が存在するが故か、それとも、もしかしたら「たまたま」、社会で成功している人達の間に大学卒業生が多いと言われているがゆえにか、大学はその価値を認められている。
しかし、消費者がその商品の実質価値の低さを実感する状況が続けば、もちろんその商品に対する価値認知は一方的に下がり続けるのだろう。
これもまた極論だが、別に知識をインストールしなくとも、人間がネットワークに接続され、そのネットワークを介して、最適な知識とサービスに接続できるようになれば、大学という一つの場所に滞留して一定の期間を学習に撃ちこむようなモデルが、時代遅れとされるようになるかもしれない。
こういう話は20年前から存在するし、それもあってインターネット上で教育を提供するというような話は多数ある。しかし現状は、 世界に黒電話が普及しているとすれば、スマートフォンが普及している世界と同じぐらいのギャップがある。ただ、いつか来るかもしれない世界である。
大学自体がそれをできなくて、大学の大半が潰れるのだとしたら、恐らくそこで働いていた大学教員は、そういう会社のコールセンターのようなところでキーボードを叩いているのだろう。
大学という組織が静かに市場の停滞と縮小とともにそのプレゼンスを縮小させていくのか、はたまた短期間でこの機能の大部分を代替する勢力であったり、技術であったりに置き換えられてしまうのか、それはわからない。
逆に、大学という組織が大胆な改革に成功して、社会の中でより高い存在となる可能性も、私は否定しない。
しかし、いずれにせよ、なんらかの打ち手が必要であることは間違いがないだろう。現状を冷静に見据えれば、一部の競争力のある大学を除いて、大部分の組織がこの世界から消えて行く可能性が指摘できるからである。
どのような戦略を取るにせよ、全体的な価値を再確認してもらうために、サービスの提供者たる教育者全員が、提供する価値の磨きこみに日々尽力し、また同時に競争的な環境を導入する必要があるだろう。教職員間で相互に評価し合う仕組みを、さらに整備しなければならないと考えられる。
アメリカも、昔大学向けの補助金が大量にカットされた時に、多くの大学が留学生の獲得に走るようになり、今の体制の基礎が出来上がったという。それこそ、シンガポールがしていた様に、INSEADの卒業生にはビザを無条件で出すような政策を、リスクを取って打ち出すべきであると政府に働きかけるべきだろう。
そして、別に日本に閉じこもるではなく、INSEADやシカゴ大、確かジョージタウン大学のようにアジアや中東に分校を作って、そこで大学を経営 するのを試みても良い。
日本が少子高齢化なら、外に出れば良いのである。世界の一流校はもうやっている。もちろん日本の大学でも出先機関を設立する動きはあるが、さきほども述べたように、まだまだまだ甘い。規模が小さすぎる。
英語で本を出し、講演を重ね、新聞に投函するような、日本でやっているような行為を海外でもすればいい。私は、日本の研究で、海外でも知らしめる価値があるものはたくさんあると思う。生産工程管理であり、サービス産業であり、また単純に文化であり、歴史であり、列挙すれば限りはない。
日本の伝統工芸が衰退の憂き目にあいつつも、一部で海外進出の声が聞こえるのは嬉しい。研究者も、声を大にして、その優れた研究を海外に発信して行かなければならない。
この記事は、もちろん答えを出すことを目的に書いてはいない。冷静に現状を見据え、その上で、前に漕ぎ出すために書き記すものである。
この厳しい現状を鑑みるに、これまでの勝ちの方程式にこだわらず、批判を覚悟で、前に進む勇気が求められるのだろう。
大学は、特殊な組織であるが、社会に価値を与えることによって存続を許されている組織の一つにすぎない。
既得権益や過去の栄光にすがっていては、これから先にも永続して存在していくことは出来ないのである。
例え産業が縮小するとしても、本当に良い物は残る。変化のある市場には、落ちぶれるものがあれば、絶えず興隆するものがいる。
日本の大学がいくつ潰れようと、教育、研究、そして高等教育機関の運営という機能に対する全世界的な社会的ニーズは消えないだろう。
そして、たとえ、大学がその役割を終えようとも、その中に存在する研究者や、教育者の役割が終わることは、恐らく、無い。
そもそも、私が研究者への道を進むか(進めるか)どうかはわからない。しかし、それでも私がこの道に進むとしたら、私は何をするべきだろうか。
簡単である。一人の研究者として、教育者として、私ができることは一つしか無い。現状を冷静に見つめ、一流の仕事をするだけである。
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