私は、ヨルダンから陸路でイスラエルに向かっていた。
数えきれないほど超えてきた、これまでの国境とは違う空気を感じていた。
2つの国
歴史上、幾つもの争いの渦中にあったこのヨルダンとイスラエルの関係は、この記事を書いている今、悪化の傾向に見舞われている。多くの人々の願いや望みと裏腹に、多くの人々の歴史にのしかかる暗い、暗黒の闇が、2つの国を近づけようとしない。
2つの国は正常な関係ではない。いつ何時戦争となるかもわからない。片方の国から片方の国にミサイルが発射されることも不思議ではない。日本のような第三国が物理的な橋をかけたとしても、しかしその精神的な距離は、そうそう簡単に縮まるものではない。
しかし同時に 、このふたつの国は、憎みあい、睨み合う関係を続ける一方、お互いの協調を必要としているのも事実である。死海という世界有数の観光資源を抱える両国は、この地域の産業としての可能性を探るために、経済面での協力関係を推進しようとしている。この地域の安定は、この地域に眠る観光資源を掘り起こす。それはもちろん、両国の経済にとって大きな実りをもたらすからである。
政治的に遠く、心理的にも遠い。しかし経済的欲求が繋がろうとする2つの国、ヨルダンとイスラエル。私が出会った、二人の国境を超える者達は、これらの特殊性を浮き彫りにする、信念に満ちた男達であった。
国境への道
何年か前、私は陸路でイスラエルに向かっていた。ドバイでのプロジェクトに区切りをつけ、この特殊な地域をさらに知りたいという欲求が起きた。そして、仕事では行く事のない田舎の道を、様々に駆け巡った。その果てに思いついたのが、陸路に国境を超えて、「中東のアメリカ」へと渡るという計画であった。
もちろん、その国境は、スイスからドイツに渡るようなものではない。ドイツからフランスに渡るようなものでもない。チャーターした運転手は、「国境であなたを降ろさなければならない」と、私に忠告をしていた。
しかし同時に私は、そこを超えることができることを知っていた。そして例え越えることが出来ないとしても、ならば帰ればよいだけだと、楽観的な心持ちでいた。
私は国境の検問所に着いた。そこは、北朝鮮と韓国の38度線の様な、緩衝地帯が広がる国境であった。びっくりするほど簡単な出国審査を終え、私はその緩衝地帯を越えるために用意されたバスに詰め込まれた。
窓がカーテンで塞がれたバス、外を見ることは許されなかった。カメラを手に持つことは、私の身の危険を意味した。私が如何に、私は陸上侵攻の場合に向けて防衛網を偵察している人間ではないと主張しても、きっと彼らは聞いてはくれないだろう。
無論、軍事衛星がそんなものは捉えているのだろうとは思ったが、しかし彼らは、敵性国家に渡ろうとするものが、情報を手にして出国していくのを、とても嫌うという、極めて普通の国防の人達だった。
私は、カーテンの小さな隙間から見える、枯れた風景を覗き見ていた 。そこには、その枯れた風景に映える、人を殺すための設備であり、人を守るための設備が点在していた。
不思議な美しさを感じていた。それは緑豊かな草原に朽ちる屍のような、不毛な砂漠に映える大都市の蜃気楼のような、非人間的であり、しかし人間を感じさせる不自然な物体の群れに見えた。
バスが橋を越える。その地域の平和に何も直接の関係がない、しかし経済力のある東洋の国が、経済援助の一環として残した橋を越えた。一つの橋をかけるということですら、もうひとつの国の疑心暗鬼を産んでしまうという状況が、この地域に潜む、見えるようで見えない難しさを象徴しているようであった。
短い旅が終わり、私はイスラエルの入国審査を受けようとしていた。私はここで、二人の、象徴的な、国境を超える人達に出会う。短い出会いではあったが、しかしその出会いは、私の心に深く残る出会いであった。
待ち続けた人
一人は、入国の列で私の前に並んでいた、大柄の男性だった。 目が遠くを見ていた。何かを顕したくて仕方がない様子が伝わってきた。何十分かの時間が流れ、しかし未だにその列は続いていた。遂に彼は、私に話しかけてきた。
「君は、イスラエルに来るのは初めてか?」
私は、特に深く考えることもなく、初めてであり、少しの仕事を兼ねた観光だと答えた。そして私は聞いた、あなたはどうですかと。
「私は、二度目の訪問だ。正確には、私はこの国に戻ってきた。」
私にはその意味がわからず、ただ単にこう聞いた。
「あなたはこの国の人なのですか?(Are you from this country?) )
その時、私にはこの言葉が彼にとってどの様な意味を持つかがわからなかった。その言葉は、彼に考える時間を与える一言であった。彼が人生の大きな一瞬を迎えるその瞬間に、私は彼にとって、大きな意味のある質問をしていたのである。
彼は、少し考えて、確かこういったのではないかと覚えている。
「私はここから来た。私はここで生まれた。(I’m from here. I was born here.) )
彼は、私の目を見つめながら、心の奥底からこみ上げるような力強い、しかし静かな声を続けた。
「私はここから来た。しかし私は去らねばならなかった。私は今フィンランド人になった。帰ってくるのに何年もの時間が過ぎてしまった。しかし、私は帰ってきた。(I was born here. But I had to leave here. I’m now a Finlander. It took years to come back. But I came back. ) )
私は、その重みに耐え切れなかった。この人物の、その瞬間に立ち会っている自分が、むやみにその時を濁す訳にはいかないとすら思った。私は、頷くことしか出来なかった。頷くことしかしなかった。どの様な言葉も、たとえそれが日本語であっても、彼の背負うものにとっては不釣り合いに見えた。
彼は私の同意を見ると、私の気持ちを汲み取ったのか、その思いを誰でも良い誰かに吐露したことに満足したのか、彼の順番へと旅立っていった。
今、私は彼がパレスチナ人であったのではないかと 理解している。彼はフィンランドで身を立て、あの国の国籍を取得したのだろう。彼は生まれた土地を訪れる事が叶う身分となり、飛行機よりは国境監視が弱いとも言われる、陸路で入国を果たしたのだろう。
彼の滞在は、恐らく短期間のものであることは間違いない。観光ビザでの入国は、永遠の帰国を約束するものではない。しかしその帰国を、永遠に思える程の長い時間夢見てきた彼は、私のようなものが想像の出来ない思いを胸に、この場所を訪れたのだろう。噛み砕けない思いを胸に、私は国境の向こう側に消えていく彼を見送った。
国境を越える
ほどなく、自分が審査を受ける番となった。日本国のパスポートを保持する私は、正直その入国を、甘く見ていた。しかし、その尋問は難航するのである。
よくよく考えれば、私は不審人物も極まりない。
日本人にもかかわらず、陸路で敵性国家から侵入しようとするこの人物。聞けば第四帝国を標榜するネオ某の巣窟たるフランクフルトに在住しているという。
しかも、「イスラエルのスタンプを教えてくれるな」などとさえもいう(中東各国の入国審査がやりにくくなるという情報を得ていたため)。さらには、観光で来た、とのたうち回っているにもかかわらず、クェート、UAE、カタール、バーレーン、などなどの中等のスタンプに埋め尽くされたパスポートを保持している。
更に悪いことに、その数カ月前に、私はレバノンを訪れていたのである。東部のヒズボラの支配地域にも足を踏み入れていた。その国は、もちろん、イスラエルとミサイルの打ち合いを演じた国なのである。
かなりの時間が過ぎ、なんとかスタンプを押してもらった。しかし、私はその当時はまだ珍しかった全身スキャナーを通された挙句、私の荷物は完全に丸裸にされる事となる。そして、さらに待たされた。荷物は、待てども、待てども出てこない。しかしこの時間が、私に二人目の出会いを与えてくれた。
運ぶ人
何十分かの時間が過ぎた後、ふと私は気付いた。もう一人、私のすぐ近くに待ち続けている初老の男性を見つけた。そしてその彼も、待ちぼうけを食らうおかしな東洋人を見つけたのである。
目が合い、雑談となり、私は彼が商売をしていることを知った。彼は、ヨルダンの野菜を、イスラエルで売っているという。昨今の争いで検査が厳しくなり、自分の荷物も洗われると嘆いていた。手荒な検査のために、幾つかの商品がだめになるとも言っていた。
私は、コンサルタントのような、愚直な質問をしてしまった。
「 それで、どのくらい儲かるのですか? 」
またしても、彼の返答は、私の浅はかな考えを超えるところにあった。その信念は、私が考えていたものではなかった。彼は、このような事を言った。
「儲かるかと言われれば、そんなに儲かるものでもない。色々な手続や、手間暇を考えればそんなにうまい商売ではない。しかし私は、その商売の重要性を知っている。私がやっていることは、2つの国の利益になるものであり、2つの国を繋げるものだ。たとえ、まったく儲かることがなかろうとも、どんなに困難が増えようとも、続けられる限りに私は、この仕事を続けるはずだ。私はこの仕事に大きな意味を感じているのだ。」
私は聞いてしまった。そんな事を聞くべきではないはずなのに、脊髄反射のごとく、私の興味が聞いていた。
「ビジネスは、この問題を解決できるのか?」
彼は、静かに、しかし力強く答えた。
「わからない。わからないが、これが私にできることだ。私は商売人だ。この商売を通じて、私は生きている。そしてこの商売が、大きな意味があると信じている。」
私は、続ける言葉を持たなかった 。頷いた。そして、取り留めのないやりとりをしていた。特に私が彼の助けになることはないとは思いながらも、自分の名刺を渡し、彼の名刺をもらった。もっと話していたかったが、少しすると、彼の荷物は出てきた。「また会おう」、その一言の先に、私は彼に再開したことはない。しかし、彼の信念には、私は何度も再会している。仕事と商売の信念を、正しい道を、実践している男がそこには確かにいた。
エルサレムへの道
そして結局、一時間以上の末、中身がぐちゃぐちゃになった私の荷物が出てきた。安堵と同時に、私は「中東のアメリカ」に降り立った。そこには沢山のバスが待ち受けていた。タクシーもいた。道路も整備されていた。
向こう側とは違う世界が広がっていた。死海を乗り越え、3つの宗教が混在する街に向かう道のりの中で、私は二人の国境を超える者たちに、煮え切れない思いを馳せていた。
そこに、人が死んでいくような対立があり、戻ることの出来ないような壁がある。単に世界が一つになっていく世界でのみ生きていた私は、しかしこの地球上には、未だに一つになり得ない「境」が、数多く存在していることに気付かされた。
マスメディアに流れていく悲惨な風景よりも、確かにその「堺」に直面し、しかしそれを乗り越えようと努力してきた、そしてこれからも努力していく男達との遭遇が、私の魂を遥かに強く揺さぶった。
☆☆☆
後日、私はその道を、もう一度辿ることにした。イスラエルからヨルダンに戻る道は、最初の時のような興奮を与えることはなかった。彼らにまた会うことはなく、私は両国の、仮初ではあっても平和の象徴である死海のビーチで、空を見上げながらも遠くを見つめていた。
p.s. この物語は事実を元にしていますが、各人物の発言は回想に基づくため正確性にかける可能性があります。
とても魅力的な文章で、惹きつけられながら読んでしまいました。
コメントをいただけると書いている価値があるというものです。